第4回「開放と分断 在日コリアンの戦後」

 木立性ベゴニアの花が咲きました!
シリーズ日本と朝鮮半島の第4回、先週の日曜日(25日)放送分です。
昨日、若泉敬の沖縄に関する密約の番組を見た後ですので、どうしてもアメリカの占領政策の一環としてのこの問題が浮き彫りになってきます。占領下の日本はアメリカの都合ですべては決まっていった。戦後の民主化も、米ソ対立の冷戦下、アメリカのアジア戦略のなかの日本の役割。在日コリアンの問題も勿論その中にあったということです。今回も私なりに番組に沿ってまとめてみます。

敗戦後の日本、それまで日本の植民地支配で帝国臣民となり国語を奪われていた在日コリアンが祖国の言葉を取り戻す民族教育を占領期のGHQと日本政府が許さず、1948年、阪神教育闘争という抗議運動の中、銃弾で16歳の一人が死亡するという事件が。それには米ソの冷戦という時代背景があった。


1945年の敗戦から1952年のサンフランシスコ平和条約で日本が独立するまでの7年間の占領期は、約60万人といわれる韓国地域出身者に対して1946年の参政権停止、外国人登録令など数々の通達が出され、48年の阪神教育闘争、52年の日本国籍喪失までの現在に至る法的地位が確定する時期と重なっている。


1945年8月、日本の敗戦と共に朝鮮の開放・独立が保障されていた。それは1943年に米・英・中国の首脳によるエジプトのカイロ宣言で「朝鮮は奴隷状態で、自由で独立した国になるべき」とされていた。植民地時代、日本には200万人が連れてこられ、敗戦時、祖国独立の希望を胸に、九州各地の港や下関には帰国を望む人々が押し寄せていた。しかし、財産持ち出し制限があったり、諸々の帰国できない事情で約60万人が日本にとどまる事に。そして、アチコチの互助組織を束ねる形で1945年に在日本朝鮮人連盟(朝連)が、翌年1946年に在日本朝鮮民留民団(韓国民団)が生まれる。
その頃、GHQマッカーサーは日本の民主化政策の一つとして日本共産党幹部ら政治犯の釈放を行った。その中には共産主義の考えを持つ朝鮮人活動家も含まれていた。朝連は当時労働運動や民族運動の中核をなした最大規模の組織であった。


1945年11月、アメリカ本国からは初期基本指令という在日コリアンの条件を示す指令があり、「朝鮮人は開放人民として扱うがそれは軍事上の安全が許す限りであり、必要とあれば、敵国民として扱ってよい」というものであり、「占領が終わり日本の国家としての地位が確定するまでは日本国籍を持つものとする」とされていた。GHQは戦争中の日本の扱いの反動から朝鮮人不法行為を怖れていた。


1946年4月、戦後初の総選挙でアイヌ人が選挙権、被選挙権を獲得、婦人たちも同様、しかし朝鮮人は参加できず、
何故か? 内閣法制局の極秘文書に清瀬一郎(戦前は普選を唱えた法学者で東条英機の弁護人でもあった)の「内地在住の台湾人及び朝鮮人の選挙権・被選挙権について」という1945年の意見書が。その中で「民族単位の選挙を行いたる前例なし。もし思想問題と結合したら次の選挙で天皇制の廃棄となる」
丁度当時連合国の間では天皇の戦争責任を巡って議論が分かれ、天皇の地位も未定であった。


解説の学者の話では「帝国主義の時代にあっては異民族を支配しているという誇りがあったが、敗戦後は、維持できず、異民族切捨てに変わった」



1946年(昭和21年)11月、日本国憲法公布。心配された天皇の地位は第1条で国の象徴として残る事に。
ところが、GHQが要望していた外国人条項は削除修正されることにGHQの草案では「外国人は法の平等な保護を受ける」「又、国籍を問わずすべての自然人の人権を保障する」となっていた第16条は最終的に決まった憲法では消えて、14条の「すべての自然人」という表現は「国民」と置き換えられた。
「なぜ削除を認めたか?」に当時関わったアメリカ人女性(GHQ民生局のベアテ・シロタ・ゴードンさん、当時憲法の作成に取組んでいた)の証言です。「たくさんの重要事項があり、外国人の権利で日本政府ともめて反感を買いたくなかった。第1条、第9条がより大切だった。マッカーサー天皇制を積極的に維持して全力で憲法に入れようとしていた


1947年(昭和22年)5月2日(憲法施行の前日)、天皇の裁可による最後の勅令「外国人登録令」で「朝鮮人は外国人とみなす」とされ外国人登録証明書の常時携帯が義務づけられ、朝鮮人の法的立場が規定された。 朝鮮人は「日本国籍を持ち、納税の義務を課される一方、登録にあたっては外国人とみなされ管理される」ことになり、勅令に違反すれば禁固、強制退去の罰則が。  つづく