「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」(竹田恒泰)


ヨガ仲間のHさんから借りたこのPHPの新書、ずいぶん時間がかかってしまいました。
出だしで一寸引っかかって、読む気が萎えてしまっていましたが、途中から面白くなりました。
日本人が何故日本のことを知らないのか、というタイトルは肯けます。
もうずいぶん以前のことですが、若い子がイギリスに行って天皇陛下の名前を聞かれて答えられなかったというお話がありました。天皇家には苗字がないので、名前だけ知っていればいいのですが、そういうことも説明できない・・・ということがあります。裕仁昭和天皇)、明仁今上天皇)、徳仁(皇太子)という名前、私たち世代はまだ知っていても、若い子たちは知らないかもしれませんね。今のこともそうですが、現代史、近代史の勉強不足は身に染みています。この本の中で著者が嘆いているように、敗戦を機に昔のことを教えなくなったということもあるでしょう。
戦後70年に近い今となっては、当然、日本の歴史は知っておくべきですが、ただし、あくまで冷静に学問的にであって、政治的にではありません。しかし、歴史というのは政治史でもありますので、これがなかなか難しいことです。その意味で隣国同士の学者が共同で歴史の教科書を創るというのは意義があることですね。日中韓で共通の教科書で子どもたちが学ぶ、そんな日が早く来てほしいと思います。
この本の著者、竹田恒泰氏は、「たかじんのそこまで言って委員会」でひな壇によく座っているのをお見かけする方です。なかなかお喋りがお上手ですが、明治天皇の玄孫(やしゃご)にあたる旧皇族で昭和50年(1975年)生まれ。父親は女子柔道の選手の訴えでも動かなかった日本オリンピック委員会JOC)、今はオリンピック誘致にかかりっきりのJOCの会長の竹田恒和氏(ロンドンオリンピックの凱旋パレードで先頭の車両に乗っていた方)です。


さて、私が引っ掛かったのは:
「現在は『国家』と言えば、近代国家を指す。近代国家の典型の一つは国民国家、すなわちネーション・ステートという国家概念がある。・・・略・・・。欧州におけるそれ以前(18〜19世紀、市民革命を経て成立させた国民国家)の国家は王朝国家であり、日本も王朝国家を営んできた。日本は明治維新によって国民国家を創ったというのが一般的な考えだが、私はそれに疑問を持っている。
…古代から一貫して国民本位の政治を行ってきた国は、日本以外に私は知らない。…日本国民は昔から国民だったのであり、明治維新に国民としての地位を手に入れたわけではない。従って、日本は王朝国家でありながら、世界最古の国民国家でもあるのではないだろうか。」というあたりです。
日本史を世界史の中に位置づけるのなら、世界史で使われる「国民国家」という言葉を使うのなら、「天皇が国民一人一人の幸せを祈る存在でありつづけて」「一貫して国民本位の政治を行ってきた」から、「日本は世界最古の王朝・国民国家」なんて言うのは、余りにも説得力がありません。武士が政権を樹立してから以降の天皇が「政治を行ってきた」と言えるのかも疑問です。

それ以外は、面白く読めました。特に中国大陸との関係で冊封体制の中から時間をかけて上手に対等の関係・自立の関係に持って行く外交は、スリリングでとても面白く描かれていました。現在の対米従属外交とエライ違いです! 漢の時代には日本を「漢倭奴国王」という金印に残されているように「倭」とか「奴」とかの蔑(さげす)んだ漢字をあてていました。そこからどうやって・・・というところを第二部の「子供に読ませたい建国の教科書」(文科省合格教科書中学校社会科)よりまとめてみると。

聖徳太子は隋から先端の文化と制度を取り入れ、隋の冊封体制に組み込まれず対等な地位を築く方針を固めました」。その為中央集権国家を創るため国内の改革に取り組み、603年に冠位十二階、604年には十七条の憲法を定めます。607年の第二次遣隋使に小野妹子が派遣されています。推古天皇が隋の煬帝(ようだい)に宛てた国書の書き出しは、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」でした。当然、煬帝の怒りを買いますが、608年の第三次遣随使は「天子」を使わず、「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」という文面です。これで冊封体制からの独立を黙認させることに成功。
朝貢すれども、冊封はうけず」は先例となり、慣習として定着、618年に隋が滅亡するまで遣随使は第五次を数えた。
唐に変わると、外交はまたふりだし。624年に朝鮮三国はそろって冊封を受けるが、日本が使節を送ったのは遅れて630年になってから。


聖徳太子亡きあとは政変と戦争で中央集権化が進みます。645年の「乙巳(いっし)の変」、中大兄皇子中臣鎌足が、飛鳥板蓋(いたぶき)宮の大極殿で第35代皇極天皇の前で蘇我入鹿を殺害。朝廷はこの年日本で最初の元号である「大化」を定め大化元年とする。翌646年、大化の改新の詔(みことのり)が出され、公地公民制がとられた。
663年、白村江の戦い:半島情勢の変化により、百済の復興支援のため大軍を派遣して、唐・新羅連合軍と戦うが完敗。
天智天皇は、連合軍の日本列島侵攻に備えて九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき)や朝鮮式山城を築き防備を固める。党は高句麗を滅ぼすも日本決戦には至らず。<このあたりは4年前のNHKの番組「古代道と国家の形」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20091204/1259893622)が面白く参考になります>


百済滅亡により、多くの人々が日本に亡命。朝廷は百済の人たちを迎え入れ、半島の文化を積極的にとり入れ活用。特に国の運営については多くを学ぶ。
天智天皇崩御の後、672年、皇位継承をめぐる壬申の乱が、皇子の大友皇子天皇の弟の大海人(おおあまの)皇子の間で戦われた。大友の皇子側は大豪族の大半が味方、大海人皇子側には地方の中小の豪族が味方した。大海人皇子が勝ったため、有力豪族が没落、天武天皇の権威が高まる結果に。
白村江の戦いの論功で一部私有地が認められていたが、ここで私有地、私有民を廃止、公地公民を復活。「古事記」「日本書紀」の編纂を命じ、天皇を中心とした中央集権国家を完成させる段階に。


701年、第42代文武(もんむ)天皇大宝律令を定めて律令国家(法治国家)となる。「律」は刑法、「令」は政治の仕組みを定めた憲法統治機構行政法民法にあたる。詔書天皇の意思表示の公文書)として「日本天皇」と記す規定があり、「日本」の国号と「天皇」の称号を法律に明文化。藤原京律令国家としての日本国完成。
大宝2年(702)の遣唐使は、初めて対外的に国号として「日本」を名乗り、その理由を説明。旧唐書によると、「日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす」「倭国自らその名雅(みや)びならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などと記しています。
この後の100年間、日本は冊封を受けることなく、20年に一度程度、遣唐使を送り続けました。ここに完全なる独立を手に入れました。
そして、710年の平城京遷都によって、聖徳太子が考えた律令国家の姿が完成。これから先、日本は中国王朝の冊封体制に組み込まれることなく、今日に至る。

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著者は日本が中国の冊封体制から抜け出して独立国として自立できたのは、「雄略天皇の時代から、中国と一定の距離を保ち続けてきた」ことにあるとしています。逆に「中国と友好関係を結んできた周辺国はことごとく国を滅亡させてきた。朝鮮半島も良い例である。中国と一定の距離を保つことにより、日本はむしろ安定した位置を確保することに成功したのではあるまいか。これは現在についても同様であると思う。「日中友好」とは、両者が極限まで歩み寄ることではなく、適切な距離を保ったうえで初めて安定的な関係をきずくことができるであろう」と書いています。
ここで「一定の距離」というのは、物理的な距離ではなくて、「冊封を受ける」という密着関係とは少し距離を置いた「朝貢すれども冊封は受けず」という距離感のことを指していると思いますが、日本の場合、「一定の距離」が、両方当てはまって幸運でした。中国と陸続きの近場の国で「友好関係を結んだ周辺国」という言い方が当てはまる国があるのでしょうか。「友好関係」というのは対等の国同士の関係を言うのだと思いますので、朝貢して冊封を受けていれば「友好国」とは言えないでしょう。
現在に置き換えて言わせていただければ、アメリカと比べて中国大陸との距離は近いですが、中国とは体制も違うし現在、友好的な関係が発展しているとは言えません。逆に、アメリカとは大平洋を隔てて遠い距離にありますが、かつては中国とソ連を仮想敵国にして日米安保条約を結んで、敗戦後、占領時代を通じて未だに首都圏に外国の軍隊がある「独立国」は日本だけ?ですし、沖縄の様子を見ても軍事、外交に於いて「朝貢するは冊封は受けるは」という密着関係と言えなくもない? 今こそ、アメリカとは一定の距離を保って、せめて「朝貢思いやり予算や基地提供?)すれども従属せず」でやって頂きたいものです。

(写真は、4月中旬と言われた日の花たちです。水仙、竜金花、そして、うららかな春の陽にズングリむっくりだった花の茎がスクスク伸びたクリスマスローズ