「古代道・古代日本のハイウエー」と箕面!

先週の火曜日(24日)、朝刊の番組欄でチェック、録画して後日見た番組、とても面白かったです。
NHKのBS2で放送された「古代史スペシャル」で、「古代日本のハイウエー・1300年前の”列島改造”」という番組。
飛鳥、奈良時代に幅10メートル以上の大きな直線道路が総延長6300キロも張り巡らされていたというのです。
古代道跡が次々と発掘されて解ってきたのだそうです。箕面の萱野三平旧邸前の西国街道を見ても狭いので、そうか、昔は参勤交代で籠が通って馬が走ればいいからこの位で良かったんだと思ったことがありました。それより古い「古代道」というからには、西国街道より狭いはずと思い込んでいましたので、ビックリ! それもカチカチに乾いて叩けば金属的な音がするくらい、水はけ抜群のすぐれた道路を作っていたといいます。土木工事の技術も相当なものだったとか。

国府国府を直線で結んだ道路の跡は航空写真で見ると痕跡が判るそうです。最近の道路ほど曲がりくねっていて、古代のは森も突き抜けて一直線。それが、航空写真で辿れるといいます。平城宮朱雀門を起点に7つの道路が全国に向けて走っています。  東山道東海道南海道西海道山陽道山陰道北陸道の7つ 
考古学が趣味の俳優・苅谷俊介さんと若い女性タレントさんが二人で朱雀門から大宰府を訪ねる旅に出るということになり、朱雀門の近くの奈良文化財研究所を訪ねます。全国にある35万点の木簡の半分がここにあるといいます。水につかった状態で出てくるので、保管も水につけた状態。そういえば、阿修羅を見に行った時、奈良の市街区域の真ん中を地下に高速道路を通す計画があり、その建設計画に反対する署名を求められました。「まだ沢山地中には木簡が埋まっていて、地下水が途絶えたら木簡が全部乾燥してダメになる」と訴えていましたが、ナ〜ルホドこういう事だったんですね。

さて、使者は内裏の外で出発の儀式を受けます。平城宮朱雀門前の道路は羅城門まで道幅74m、5キロも!
都から地方へ官道を通って行く為には許可証と鈴が必要です。 駅鈴

大臣が天皇の命令を書いた巻紙を木箱に入れて絹の紐で縛り、革袋に収め木札をつけて伝令に渡します。伝令は門の外で待つ使者の所まで鈴を鳴らしながら走って行き、渡すときには姓名を問い、目的地と通過する駅名を告げます。使者は命令書を受け取ったら、鈴を目的地まで鳴らしながら馬を走らせます。鈴は今でいうサイレンの役目だとか。駅家(うまや)は16キロごとに有り、瓦葺の立派な建物(発掘されて解っています)。筑紫の国へ山陽道を3つの駅家を通って行くようにということで苅谷さんと二人が車で出発します。(「駅」という字がウマ偏の訳が分かった気がします)

高槻市には1970年に日本で最初に発掘された古代山陽道の跡があります。発掘当時の研究者も西国街道が5,6mなので、ほぼ踏襲した大きさと考えていたが、発掘されたものが石突きの立派な幅も広い道路で驚いたそうです。
航空写真で古代道を探そうというクイズで箕面周辺の写真が出されました。「直線」がヒントで、かなり典型的な直線道路跡とのこと。
正解は国道171号線の南の一直線だったので、あれは旧西国街道ではないかと思います。
古代道は高槻からほぼ一直線で箕面を目指して伸びていて、箕面市の辺りで角度を変えて、神戸市に向かっています。「西国街道箕面川を避けるように南へ」と言われていますので、古代道と西国街道は一致するのでは? 
それから国道2号線の真下を西に古代道は走っているとか。
神戸辺りは山が海に迫っているので、道も鉄道も海岸と山の狭い平地しかないというのは分かります。大阪の場合は、大阪平野があったのに箕面というのは? その頃、淀川の下流地帯は湿地帯で、川幅も広かったので、川幅の狭い山側の平地を探った結果でしょうか? 金剛山生駒山地を避けないといけないし〜すると、高槻あたりが山の切れ目なんですね〜と、想像を巡らすのも楽しいです。

もう1枚は加古川の航空写真でこちらは道幅が残っている写真でした。
道路を通して国家の権力を示すとともに、土地区画の基準にして田畑を造成していて、新たな国の形を作る一大事業だったという解説。
直線が湿地帯を通る場合は盛土をして堪る水は道路を堤防代わりに溜め池を作った。盛土の作り方は一番下に枯草や小枝を敷き詰めてその上に何層も土を固める工法で、土の重みを木の枝が分散して崩れるのを防いだという。今も敷網工法として道路づくりに活かされています。
番組では大成建設竹中工務店の研究者達がものつくり大学の学生たちと一緒に古代道の再現に取り組んでいます。古代の道具と工法で新しく道路を再現し、それにかかる人数を割り出すと、溝だけで3000万人、道路は2,3倍の人数が必要とのこと。奈良時代の人口は450万人。私にはこの数字の根拠と意味が良く分かりませんが、とにかく延べ数千万人の人間が関わっての大工事であったということです。 さて、一体だれが構想したのか?
興味はつきません。 つづく