奈良の吉野山を訪れて思い出した歌がありました。私が小学生の頃、母がよく口ずさんでいた歌です。
「♪あおばしげれるさくらいの〜」という出だしで、楠正成(くすのきまさしげ)と息子の正行(まさつら)の別れの歌だそうですが、私はこの桜井という地名が不思議でした。
阪急電車の宝塚線の石橋駅から箕面線に乗り換えて、終点箕面まで駅は二つしかありません。箕面駅から牧落、次が桜井という駅です。母が口ずさむ歌の中に、この箕面(市)の桜井が歌われているのかと思いながら、どうも違う、奈良市に桜井というところがあるので、ここの事だろうと思ったのが随分経ってからの事。
ところで、本当にそうかなと、今、調べてみたら、そうでもなくて、西国街道の桜井駅<「駅」(驛)とは宿駅のこと>で、「摂津国島上郡桜井村(現在の大阪府三島郡島本町桜井)」のことだそうです。60年以上も経ってやっとです!
子どもの頃の勘違いとか思い込みで面白いお話:「台風一過」というのを「台風一家」と思っていたとか。大嵐の時、家族一致団結して立ち向かうとか、やり過ごすという意味だと長い間思っていたというお話です。ついつい信じ込んで、何年も経って思い違いに気づくという経験が誰にでもあるというのが面白いです。さて、幼いころの思い出の歌のつづき。「♪このしたか〜げにこまとめて〜」が、「木の下の陰に、乗っていた馬を繋いで」と解るには、随分な時間が必要でした。
(上の写真は、谷越えをして如意輪寺に向かう途中で見た桜と斜面の下草はシャガ、
二枚目は如意輪寺山門に登る階段近くの坂道で見た首の欠けた座像)
◎ネットで懐かしい歌詞を調べてみましたので、コピーしてみます。
−桜井の訣別−
1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙かはた露か
2.正成(まさしげ)涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ
3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸(もろ)ともに 御供(おんとも)仕えん死出の旅
4.汝をここより帰さんは 我が私の為ならず
おのれ討死為さんには 世は尊氏の儘(まま)ならん
早く生い立ち大君(おおきみ)に 仕えまつれよ国の為
5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年 君の賜いしものなるぞ
この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を
6番までコピーしましたが、全部で15番まであるそうです。引用元はコチラ:http://ameblo.jp/meiseisha/entry-10252574051.html
◎楠正成が、後醍醐天皇から授かった刀を形見に息子の正行に渡し、同行を諫めて母のもとに帰るように言い聞かせたのですね。その正行が、辞世の句を遺したのが如意輪寺だったという訳です。
下の写真は、如意輪寺の本堂、ここでお参りして、左手に庫裏、宝物殿、多宝塔などがありますが、こちらの中には入らず、
また、後醍醐天皇陵へと続く階段がありましたが、寄らずでした。
◎もう一度、 Wikipediaで如意輪寺と正行を:
如意輪寺(にょいりんじ)
奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。
歴史
平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。
正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。
芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。
◎吉野山を訪ねて思ったのですが、蔵王堂では役行者が、如意輪寺では芭蕉の句、そして世尊寺では役行者と芭蕉の句碑と、このお二人は神出鬼没、どこでも出てきます。