古代道と国家の形

さて、古代道を構想したのは誰か? NHKの録画番組のつづきです。
文献で解るのは古代道を誰がどのように使っていたかであって、誰が計画して命令したのかは分らないという。
考えられるのは天智天皇中大兄皇子)と天武天皇大海人皇子)の二人。

天智天皇(在位668〜671年)以前、7世紀半ごろ、朝鮮半島には高句麗百済新羅があり、倭国百済と同盟関係にあった。ところが唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼしたので、我が倭国百済に兵を出したが、白村江の戦い(663年)で連合軍に敗北。その後天皇になった天智天皇が、唐・新羅の連合軍に対する防衛ラインを構築し、対馬から都まで城で結んで情報のやりとり、物資を運ぶ必要があったので、水城(みずき)と山城を築いた。太宰府には水城跡が、岡山県総社市には山城の鬼ノ城が復元されている。この城の城壁は土を突き固めたもので、古代道の工法と同じ。軍事道路として必要だったのではないか。(この土木工法は大陸・半島伝来かも)

天武天皇(在位673〜686年)は天智天皇の息子・大友皇子と争って672年の壬申の乱に勝利して天皇になると、権力を天皇に集中させて、国内体制を整備。国名を倭国から日本に改め、国家の基礎となる律令飛鳥浄御原令)を作る。これによって地方豪族の力を削いで中央集権国家を築く。その国家の権力の象徴として大土木工事である巨大道路網の建設を行ったのではないか。

ちょうど井沢氏の「逆説の日本史2・古代怨霊編」が「第一章 聖徳太子の称号の謎」の後、第二、三章はこの天智・天武の2人の天皇、第四章が「平城京奈良の大仏編ー聖武天皇の後継者問題と大仏建立」となっていて、読んでいたところでした。天智天皇は病死ではなくて殺されたのだ、犯人は? とこちらも大変面白い内容なんですが、また別の所で・・・

で、天皇の在位期間からし天智天皇の3年では無理、これだけの大事業、大きな権力と相当の期間が必要ということで天武天皇の方に軍配があがりますね。作った人が解った?ところで使っていた人たちは? 都から地方へ、地方から都へと走っていた駅使。法律で一日10駅と決まっていたので、160キロ。太宰府から奈良の都までは3泊4日の旅と決められていたようです。都から国府へ赴任する、あるいは任期を終えて都へ帰る国司、そして、税を納める納税者と、その監督で都へ上る国司などなど。出来上がったホヤホヤの古代道を背負いこを背負っている納税者に扮した人に、上田早苗アナウンサーが架空インタビューをします。庸(=労役の代わりの米)や調(=献上する織物や特産品)の税代わりを背負っている一般人は手弁当。駅家(うまや)にも泊まれず道端で野宿、帰りは飲まず食わずの苦難の道だったようです。特産品には木簡がつけられていて、全国のあらゆる特産品が都に集まっていたことがこの木簡でわかるそうです。

さて、朱雀門を出て、摂津の国、播磨の国、安芸の国、周防の国に入ると、鋳銭司(すぜんじ)という処へ。読んで字の如く、銅銭を作っていた名残。近くに銅鉱山があって、昭和35年まで1000数百年も銅を掘り続けていた鉱山跡。鑿で手掘りをしていた坑道跡は立って歩けるほど。ここで8世紀には和同開珎が作られ、山陽道を通って全国へ。奈良の大仏の原料でもあったといいます。長門の国から船で九州へ。筑前の国からいよいよ筑紫の太宰府へ。

古代道は不思議と現在の高速道路のルートと一致します。道路史の研究家の解説では古代68の国府と都を結ぶという目的が大都市を結ぶという高速道路の目的と一致するからということ。高速道路の当初の計画が6500キロだったといいますから、古代道6300キロとほぼ一致します。一つの国の骨格は1000年経っても変わらないとか。二人の旅は大宰府政庁跡の緑の広場で終わります。大伴旅人の「ますらをと おもえる我は、水茎の 水城の上に なみだのごはむ(涙ぬぐわん)」と、任期を終えて都へ帰る時に読んだ歌が残っています。

この古代道は100年余りで壊されることに。農民たちが崩して田や畑にしてしまい、やがて、消えてしまいました。
最後に奈良文化財研究所の方が「国家の力で築かれた道路も、時代が変わり、人々の支持を失うと消える運命に。
巨大事業も支持を失うとどうなるか。消えた古代道から学ぶべきことは沢山ある」と。
箕面の所々で見られる道標はすべて「右 京へ」となっていて、都は京の都です。
今回、平安京以前の奈良の都、平城宮のあの朱雀門近鉄線から見えるあの)から発して山陽道に至る
幅10数メートルの古代の道が、ここ箕面にも達していることを初めて知って驚きました!