「生命観の行方」(「足るを知る」できるか)

面白い記事がありましたので、引用しながら整理して書いてみます。
日本経済新聞4月10日(土)の<シニア記者がつくるこころのページ>から「生命観の行方」という記事。
森岡正博さんに聞く」となっていて特別編集委員の足立則夫という方が書いています。

もりおか・まさひろ 大阪府立大学人間社会学部教授。1958年高知県生まれ。88年東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学、98年大阪府立大教授。哲学者の立場から人間の生老病死を総合的に探求している。著書に「生命学への招待」「脳死の人」「無痛文明論」「感じない男」など。

囲い見出しが三つあって、私が興味をもったのは三番目の「足るを知る」という言葉。
「吾、唯、足るを知る」の口の部分を真ん中に上下左右に偏やつくりを配したツクバイを思い出しました。

「20世紀、地球に向かった人間の欲望は、21世紀、自らの体内、それも生命へと向かおうとする。生命科学の技術進歩は、日本人の生命観をどのように変えるのか。」で記事は始まります。
「生命観は逆転する」:人間は、地球に出現してから、自然や生老病死といった、自分たちではどうすることも出来ないもの上にのっかって暮らしてきたので、自然や生命をいかにコントロールするかにロマンチシズム(あこがれ)を抱いてきた。しかし、この先、生と死はもっとコントロールできるようになる。そうなれば、逆に「いかにコントロールしないか」という領域に、人間はロマンを求めるようになる。具体的には、生命の源泉である地球環境に手を加えないようにしたり、延命治療をやめて安らかに死を受容したりする、といったことに。

「寿命が延びるほど死への不安は深まる」脳死と臓器移植を巡る問題については慎重で、人間には丸ごと生まれて丸ごと死んでいく自然の権利がある、と主張する。人間はテクノロジーの進歩をこれからも手放すわけにはいかず、仮に多くの人が200歳ぐらいまで生きたとすると、生への執着ばかりが強くなり、死の受容が難しくなる事態が生じ、死への不安が深刻になり、うつ症状が社会にまん延するでしょう。日本のような宗教の影響が弱い社会では、市民の手によって、人間の力を超えた神聖な領域(サンクチュアリ)を作る必要が出てきます。「既成の宗教の声が人々に届いていない現状を考えると、日本では市民運動のような動きのなかから、新たな生命観が生まれてくるような予感がします」

「『足るを知る』を自分のこととして受け止められるか」:人間の生命の奥底には3つの本性が刻み込まれている。
第1は「連なりの本性」。生命が30億年以上かけて太古の生命の母体から文化してきたことに由来します。人間以外の生物や、森や海と一体となることを望み、それに心を癒されることです。
第2は「自己利益の本性」。人間は他の生物を殺して食べたり、森を切り開いて住まいや畑を造ったりして、他の生物を利用することによって生き延びてきた。自分の利益のためなら、他を犠牲にして利用し、搾取してもさしつかえないと考える本性です。
第3は「支えの本性」。人間が生き延びるためには、社会の人間関係の網の目の中で互いに支え合ってゆかなければならなかった。困っている人間や動物などを、助けて力になってあげたいと思う本性。
 人間はどの本性からも逃れられないことを自覚しなければならない。釈迦や孔子ギリシャストア派の哲学者といった先人たちは「足るを知る」ことの大切さを説いています。生命の誕生から死まで、科学技術がとことん介入しコントロールしようとする中で、「何でもできるけど、しない」ことをどこまで自分のこととしてうけとめられるか。「足るを知る」哲学が一人ひとりに、一層強く求められる時代に既に入っています