チューリップが咲いた([従者の復讐」)

植えた覚えの無い場所にチューリップが咲きました。なんだかとっても嬉しいです。
 


「ヘンリー6世」の世界からなかなか抜け出られないここ数日ですが、先週から色々な出来事が続いています。
昨日は本当に久しぶりにプールのウォーキングにも出かけました。4月に入って初めてです。
今日は自治会費の集金日で、朝から班長さんが沢山来られますので、私は一日家に居ることになっています。

土曜日(17日)の日経、”シニア記者がつくるこころのページ”に新書大賞受賞の「日本辺境論」の内田樹(たつる)氏が載っていました。今年、神戸女学院大学の教授生活も最終年を迎えておられます。私はこの先生のブログをアンテナに登録して時々覗いています。沖縄普天間の問題で鳩山首相が窮地に立たされたように見える昨今、特異な論法でアッサリ(バッサリ!)捌(裁?)いておられるので引用してみます。

日本の保守系リーダーたちは親米という表の顔とは裏腹に、敗戦を引きずって根っこには反米感情が潜在しているのではないか。日米は同盟関係にありますが、アメリカという国はいつも抑圧的な存在で、日本はストレートに物を言わず、屈折した感情を抱え、腹に一物もって暴君に仕える重臣のように面従復配してきた印象があるのです」
「その間、日本はアメリカの足を引っ張ったり、没落を助長したりするようなことばかりしているように見える。ブッシュ政権イラク侵攻への支援がその典型です。『それはだめです』といさめずに、アメリカの地位を失墜させる大失態に加担したのです」
「唯我独尊な『宗主国』に極東という辺境にある日本が表立って抵抗せず、はっきりと自己主張もせずに、案外巧みに対応している」

              (当時の小泉首相のブッシュ追随外交もこういう捉え方で見ることも出来るということですが・・・)
<迷走を重ねる普天間基地移設問題は?>という問いには

どう決着するにしろ、日本が渋々、米軍基地を受け入れている現実を世界中に知らしめることができる。アメリカはまだ『植民地政策』にこだわっている横暴な国と映るわけで、これぞ辺境国の知恵だ、と(東京の日本外国特派員協会に招かれて講演した後の質疑応答で)話したら特派員たちに受けました。

新聞のコラムの日米関係の所のみ引用しましたが、ブログでは「従者の復讐」というタイトルでもっと詳しく日本の戦後65年の対米関係について書かれています。皮肉の効いた痛烈、かつ読んでいて辛くなる位の辛辣さで書かれていますのでそちらも読んでみて下さい。長い文章の最後の部分のみ引用してみます。「従者の復讐」:http://blog.tatsuru.com/2010/04/08_1249.php

この交渉における、日本政府の真の勝利はむろん「米軍の沖縄からの撤退と基地の全面返還」である。
次善の策は、米軍が「ごねて」、理不尽な要求を日本政府と沖縄県民に突き付け、その植民地主義的本質を露呈し、世界中の人々から「厭な国だ」と思わせることである。その妥協の「おとしどころ」は極端な話、どうでもいいのである。
沖縄県民が「私たちはいつまで犠牲にされるのでしょう」と絶望的な訴えをする映像がこの交渉の「本質」を伝えるものとして世界中のメディアに宣布されるなら、この政策は部分的には「成功」と言えるのである。
日本のメディアはこの交渉の不首尾について、もっぱら「日本政府の腰の弱さ、定見のなさ」ばかりを批判するが、欧米のメディアは、総じて「アメリカ政府の首尾一貫した横暴ぶり」の方を優先的に批判している。当然である。ワルモノが弱々しい市民をいたぶって理不尽な要求をしているときに、市民に向かって「堂々と戦え」と言うより先に、ワルモノに向かって「理不尽なことを止めろ」と言うのがことの筋目だからである。
そして、実際にそうなっている。
私たちは沖縄基地問題を「それだけ」で見ているが、それはこれからも続く長い物語の一節にすぎない

大仏開眼」の吉備真備トルストイ、そして先日の「ヘンリー6世」を観ても思ったのですが、この人たちのような眼差し、
幽体離脱というか、内田樹先生のような視点を持つことも大切なんじゃないかしら・・・と考えています。
流れの中にあって、流れそのものを見るというのでしょうか。

目の前の事象に一喜一憂しないで、もっと大きな物の見方を獲得しろ、と言われているような・・・
あるいは、一寸、はぐらかされている? ような気が しないでもないですが・・・