憲法記念日の昨日、午後のお茶に両親を呼んで紅茶を入れたところにチャイムが。
誰かと思えば、石川県は山中温泉の山奥・栢野に居るはずの従弟夫婦でした。
車の中から取り出した籠にはドッサリ大きなタケノコ。
聞けば、駅向こうに住む弟が、インフルエンザにかかって、来られなくなったので、朝掘りのタケノコを届けてやろうと11時ごろに家を車で出て来た。
途中強風でハンドルがとられる危ない思いをし乍らやって来た。
オジサンとオバサンの顔だけ見たいと思って・・・とのこと。
夫が、「入って、入って、お父さんが奥にいるから。お茶を飲むところだったから」と。
「コーヒーがいい、紅茶がいい?」と私。「コーヒーをブラックで」ということで、6人でテーブルを囲み、久しぶりのよもやま話になりました。
母の顔を見て、亡き義母(母の妹)にそっくりとお嫁さんが携帯で写真を写していました。
母は母で、甥が亡き父親(妹の旦那)にそっくりになったと父と二人で「オジサンにそっくりやね〜、こんなことってある〜」とひとしきり感心しています。
風が強く帰りを急ぐのでと、タケノコとワラビを置いて、帰っていきました。
それから、タケノコを茹でて、ワラビをあく抜きして、夕飯の支度にかかりながら、(茹でる前に写真と思ってたのに忘れて、写真はゆで上げたワラビと茹でている筍)夕方のABCテレビの「キャスト」を背中で見ていました。
憲法記念日に沖縄を訪ねた「キャスト」の浦川アナウンサーがなかなか良いことを言っています。
普天間飛行場を訪ね、それから、大田元知事にインタビューです。太田さんは、日本国憲法を初めて読んだ時のことを語っています。沖縄にとっては、初めての憲法、それも戦争しないと決めた平和憲法です。本土の人間にとっては当たり前、それ以下の押しつけ憲法として蔑(ないがし)ろにする今の首相とは違って、憲法の本当の値打ちを一番理解されていると思いました。無くなってからでは取り返しがつかないので、今、気づいたときに守り抜かないと、あの戦争や原爆で亡くなった方たちが浮かばれませんね。今の憲法は、あの大戦で犠牲になった全ての人たちの命と引き換えに授かったようなものです。ゲストは火曜日なので古賀茂明氏でした。
夜になって、ネットで誰か記録していないか…と検索してみると出てきました。浦川アナの発言を文字起こししているような内容です。これで、おおよその内容は分かりそう、という事で憲法記念日の記念にコピーです。(引用元:http://o.x0.com/m/234554)
キャスト【浦川アナ沖縄へ…基地の街から“憲法の今”を考える】 2016.05.03
きょう5月3日、憲法記念日にあわせて訪れたのは、沖縄です。
米軍ヘリがひしめく普天間飛行場に、ジュゴンが生息する辺野古の海岸。
米軍基地の周辺には、ただならぬ緊張感が! かつての知事が語ったのは憲法に片思いしてきた沖縄の姿でした。
きょうは、憲法記念日です。 憲法を身近に感じることなんて、ありませんけれども、今回うかがった沖縄は、憲法と生活が非常に密接、密着しているんです。そうならざるを得ない事情があったんです。
ごらんいただきましょう。 真っ青なビーチ。 太陽をたっぷり浴びたハイビスカス。
年間800万人近くが訪れる沖縄は、魅力的な観光地です。
きょうは関西を離れて沖縄にやってきました。
那覇イチの繁華街、国際通りです。
我々ふだん、憲法というものを、とりたてて考えることはありませんけど、この沖縄には憲法を改めて見つめなおす1つの大きなカギがあるんです」
「那覇市の中心部の少し東にある与儀公園です。ここに沖縄の人がいかに平和憲法を待ち望んでいたのかがわかるシンボルがあります」
「でいごの木とかガジュマルの木とか沖縄らしい公園ですね。これですね。
憲法9条の碑です。
沖縄には6基、この碑があるんだそうです。 上には憲法9条の条文が書かれていますね」
「平和都市・那覇建設のシンボルとして、碑を建立する。」
昭和60年の憲法記念日の日付と、当時の那覇市長の名前が入っています。
自治体が憲法9条の碑を作っているというのが非常に珍しい。
これは沖縄だけにみられることなんです」
年配の方々が口にするのは太平洋戦争末期、上陸してきたアメリカ軍と戦い、およそ20万人が亡くなった沖縄戦。
悲惨な戦争の記憶から、平和への思いがひときわ強いことを実感します。
ところが、那覇から車でわずか15分ほどの住宅地では…
「これが、世界で1番危険な基地、普天間飛行場ですね。
あ、オスプレイがとまってますね、アメリカの新型輸送機が。
一見して、住宅密集地のど真ん中です」「宜野湾市の面積の4分の1が普天間飛行場なんだそうです」
ずらりとヘリコプターが並ぶのは、宜野湾市の中央に位置する普天間飛行場。
アメリカ海兵隊が早朝から夜中まで、ひっきりなしに飛行訓練を繰り返します。
「あんな家のど真ん中に誘導等があってあそこに飛行機がおりてくる普通の空港じゃありえない。
それが軍事基地だということです。この見えてる存在自体が違和感の塊ですね」
普天間飛行場はこの20年間、ずっと日米両政府の間で返還が議論されてきましたが、いまもめどは立っていません。
「沖縄本島を南北に貫く、国道58号を走っています。
これから嘉手納町に入るところですけど、左も右も基地です。
幹線道路の両方に基地がある。
しかも右側も延々とフェンスが続いている。ある種異様な光景です。
日本の面積のわずか0・6%しかない沖縄県。そこに在日米軍基地の74%が集中しているという現実があります。
車をおりて国道58号線の歩道で、取材をしていると基地の周辺には、常に緊張感が漂っています
「はー、海の方までずっーと下にコンクリートがあって、上にフェンス、こんなに頑丈なフェンスが作られているんですね。
「この奥がアメリカ海兵隊のキャンプ・シュワブですね。 名護市辺野古です。
ここにドーッと大きなV字滑走路を作って、普天間の機能を移すということなんですけど、しかしキレイな海です。
コバルトブルー、白い砂浜」「なんか、この長—いフェンスが、沖縄の現実を現してる感じがしますね。
本当に文字通りの壁ですよね。 物理的にも精神的にも高い壁がある」
ジュゴンが生息する海。
この先にある米軍キャンプ・シュワブの沿岸部が埋め立てられ、長さ1.8キロもの、巨大なV字滑走路が作られる計画です。
「キャンプシュワブのゲート前です。
名護市辺野古に普天間飛行場が移設することを反対する人たちがずっと座り込みを続けています。
テント村が延々と続いています。ずっと先の方まで。 座り込み抗議658日と書いてあります。
平和な社会を約束してくれるはずだった、憲法。
しかし沖縄は、そこから一番遠い場所になってしまっている、そう感じざるをえない現実がありました。
タイガースのキャンプ取材とか、観光地のロケなどで、毎年のように沖縄は行っているんですけれども、基地の取材は初めてで、基地の中に沖縄があるという言葉があるんですけど、まさにそのような気がしました。
沖縄本島の18%が米軍基地なんです。
宜野湾市から嘉手納に向かっていく、国道という、幹線道路なんですが、基地という状況です。
いいところを基地がとって、住民の皆さんは押しやられている感じがするんですよね。
地続きではないですけど、同じ日本なのに、全然違うなという、すごい子供みたいな感想ですけど、同じ憲法なわけですよね。
同じ法律を適用されているのに、本当に前提とする事実が違い過ぎるなということにつきますよね。
普通に国道の歩道で取材をしていて、お巡りさんが来て、いいですかって、1回もなかった。
それが沖縄で、そのフェンスの向こうにあるのは、戦争のための軍用機であったり、ジープだったりするわけですよね。
いや応なく戦争が起きれば、アメリカ軍がかかわる戦争が起きれば、おもむく。
ここでは平和と戦争というものが同居しているなということが改めてよくわかりました。
そんな状況に憤りを感じている、この方にお話を伺いました。
「失礼します。お邪魔致します。よろしくお願いします」
元沖縄県知事の大田昌秀(おおたまさひで)さん90歳。 1990年から2期8年、沖縄県知事をつとめ、米軍基地の整理・縮小を、日本政府に強く訴えた知事でした。
村山総理、橋本総理など、国と鋭く対立を続けた大田さん。
大田さんもまた、日本国憲法の大切さを、こう表現します。
太平洋戦争末期、19歳だった大田さんは、鉄血勤皇隊として前線に送られました。
故郷の沖縄が舞台となった激しい地上戦。 一般住民の死者は、9万4千人。
県民の4人に1人が死亡した地獄の戦場をさまよいました。
日本軍に(「捕虜になるくらいなら自決せよ」)、そう強いられ、暗い洞窟で、手りゅう弾などで命を絶った人々もいたといいます。
「集団自決」です。 「小さい子供たちが巻き込まれてますよね」。庶民を守らない、日本という国。
絶望に打ちひしがれた大田さんが、終戦後、ある教師から見せられたのが、日本国憲法のコピーでした。
夢中になって条文を書き写した大田さん。
(「戦争はしない」と書いてある。)
しかし当時の沖縄は、日本から切り離されて、アメリカの軍政下にありました。
もちろん憲法は、適用されません。 抑えられない、憲法への憧れ。
沖縄では、本土復帰運動の熱が高まります。
「スローガンは、平和憲法のもとに帰ろう」。
1972年、本土復帰と共に、ようやく日本国憲法のもとに。
終戦から数えて27年もの月日がすぎていました。
条文を記したポケットサイズの憲法手帳も発行され大切に持ち歩いた県民もいました。
待ち望んだ平和憲法のはずでしたが、一緒についてきたのが日米安保条約だったのです。
東西冷戦を背景に、一気に米軍基地が作られた沖縄。
戦闘機の騒音被害や、墜落事故が相次ぎます。
そして人々の怒りに火をつけたのが、大田さんが知事だった1995年、アメリカ兵が起こした少女の暴行事件です。沖縄の怒りは頂点に。この事件がきっかけとなり普天間飛行場の返還の話にもつながっていきました。
しかし、移設先をめぐる対立が続き、20年たった今も返還は実現していません。
憲法の理念と、現実との差は、戦後70年が過ぎた今も埋まらないままです。
私たちは果たして、憲法が保障している人権や法の下の平等を、実現してこられたのでしょうか。
非常にショックだったのは、憲法についてどう思われますかと伺うと、
差別されているんだ、日本と違うんだ、捨て石なんだと皆さんおっしゃるんですね。
憲法で守られてないんじゃないか、沖縄、そんな思いが県民の方にあるようです。
27年間、憲法がアメリカのものも日本のものもなかった。
ようやく平和憲法のもとに帰ってきたと思ったら、基地を押しつけられているのは自分たちだけじゃないかと。 内地に来たら、差別を受ける。
憲法って、9条だけじゃなくて、ほかの条文、それも沖縄の方はあれだけ思い憧れていた憲法に守ってもらってないのがいまだにあるんですね。
切り捨てられていた歴史というのがありますから、自分たちの権利が本当にないがしろにされていた。
それを戦って、戦って、ようやく復帰した。
それはある意味、沖縄の人たちが勝ち取ったものだったんですね。
(太田さんは言います、沖縄では憲法は一つ一つ闘って勝ち取ってきたものなんです。本土の人は押し付けられたと言って大切にしてこなかったように感じる)
日本人って、いつも与えられた(押し付けられた)というふうに思うんですけど、沖縄の人たちだけは自分たちの権利を勝ち取っているんですよ。
それだけ大切なものだとよくわかっていると思うんですけれども、ところが勝ち取ったと思ったら、安保のもとでということで、本土のほうからどんどん基地を、新たに押しつけられていくということが起きているんですね。
どう考えても差別じゃないの、憲法が適用されていないんじゃないのという気持ちになります。
本土の人間は、まずそういう実態を知らないし、
よく言うんですけど、言えば言うほど、異端扱いされる。 異端児。
何を言っているんだというふうに言われてしまう。(沖縄出身で東京で働いた青年、言葉と容貌で外国人と言われた経験を語る)
翁長知事の言葉で、魂の飢餓感という言葉があるんですが、差別によって尊厳とほこりを傷つけられた人々の心からの叫びなんだ、聞いてほしいんだということをおっしゃっているんですけど、それをなかなか聞こうとしなかった我々、非常に大きな責任があるし、いろんな大事なことを勘違いしていることが多いんですね。
基地がないと生きていけないんだろうというふうに言うんですが、全く違って、経済界のトップリーダーたちが基地なんかなくたって、ないほうがいいんだということを、口々に叫び始めている。
それをちゃんと受けとめて、しっかり考えるということをしなくちゃいけないし。
それからもう一つ、原発のこととか見ていると、沖縄で起きていることが同じ問題が本土のほうでも起きているんじゃないかなと、今の安倍政権の元で。
そういうことを考えると、沖縄の問題は沖縄の問題に終わらなくて、日本人全体の問題なんだなというふうに感じます。さまざまな意見はありますけれども、(憲法は)自分たちが勝ち取ったものという思いが沖縄の方は大きいんだなと。
平和じゃなかったからこそ平和に対する思いが強くて、私なんか、戦後生まれで、平和な世の中にしか生きてないので、感覚が違うなと。
感覚を埋めるものは何かというと、知ろうとすることとか、想像力だと思うんです。
そういうところが自分がないということを前提で、これからもっと勉強しないといけないなと思っています。
いろんな思いがあると思います。<天気予報とゲストとのお話>
きょうは憲法記念日、特集で沖縄をお伝えしましたが、メディアももっと沖縄の現状を伝えるべきですよね。
2016/05/03(火) 18:15〜19:00
ABCテレビ1
キャスト[字]【浦川アナ沖縄へ…基地の街から“憲法の今”を考える】
<(括弧)by蛙>