「日本と朝鮮半島」第3回「戦争に動員された人々〜皇民化政策の時代〜」

プロジェクトJAPAN<NHKスペシャル シリーズ”日本と朝鮮半島” 第3回「戦争に動員された人々〜皇民化政策の時代〜」>
日曜夜9時の放送でしたが、大河ドラマ龍馬伝」の後、ちょっと「重い」?ので、録画で、今日、見ました。

冒頭、「望郷の丘」(海外で亡くなった朝鮮人の遺骨を納める)に今年5月19日、戦時中朝鮮半島から日本によって動員されて亡くなった219人の遺骨が、日韓両政府合意の下、東京から返還され納められる場面から始まります。扱われる時代は日中戦争が始まった1937年から敗戦の1945年まで。日本が朝鮮で戦時動員のために行った「皇民化政策」について。
日本国内では国家総動員法が布かれましたが、並行して植民地に対しては強制連行による軍事動員、労働動員がなされ、また従軍慰安婦の問題もある。強制連行ではあっても初期の段階では志願という形をとったので、朝鮮国内では対日協力者として扱われやっと6年前からその被害と名誉回復がなされるようになった。「戦時動員はイギリスでもフランスでもあったが、アジアの植民地解放を謳いながら、日本がとったような民族性を否定する極端な同化政策は世界でも特異で矛盾していた」と五十嵐解説委員。「日本が残した傷跡に韓国政府は今も向き合っている」とナレーション。

軍事動員のスタートの切っ掛けは1937年に始まったに中戦争がきっかけ。同年7月、日本が朝鮮に駐留させていた朝鮮軍陸軍省に「朝鮮人志願兵制度」の創設を提案。朝鮮人の自発的志願で日本人兵にする形がとられた。日本人兵士とするには半年間の訓練を行い、中心は天皇に絶対的忠誠を誓う精神教育(=宮城遥拝と皇国臣民の誓詞を唱える)。なぜ徹底した皇民教育を行ったかについては、「テッポウを反対に向けられると困る」からという不信感からであった。1941年(昭和16年)12月太平洋戦争開戦の翌年1942年夏には大東亜共栄圏の日本領土は最大に達し、国語教育の不安から消極論もあったが兵員の不足から「大和民族だけではなく、朝鮮民族からも戦死者を出すべき」という積極論が上回り、1942年5月東条内閣で朝鮮人の徴兵制が閣議決定され2年後実施と決まった。当時の南次郎朝鮮総督は「徴兵制度の形において、内鮮一体の政策は絶頂に達した。過去のあらゆる努力はここに達するまでの努力にあった。」と述べている。


チャンさん(日本名・張村)1943年プサンから行き先を教えられずに出航。送り込まれたのはニューギニアの激戦地。軍人、軍属16万人の8割以上が死亡。食糧、弾薬がつき、マラリアで倒れる者続出。「つらい、つらい戦争」。仲間は「内地に帰ったら、よろしく」と言って目の前で多くが自殺(銃口を自分の口に向けて)。朝鮮人3000〜4000人のほとんどが生きて帰らず。チャンさん曰く「何の価値もない戦争に、無意味に死んだ」。8年前、チャンさんはニューギニアを訪ね慰霊碑を建てた。碑文には「殉国」ではなく「受難戦没」と。


後任の小磯国昭総督は、当時日本語理解者が2万人弱だったので、日本語教育に力を入れ、徴兵対象者には青年特別錬成所を700箇所以上つくった。当時日本語教師をしていた杉山とみさん(89歳)が語る。「母国語が禁止されていたので、朝鮮の子どものために、ひと言でも早く教えなければという使命感だった」


10代の少女を戦時動員する女子勤労挺身隊に14歳で志願したヤンさん(80歳)(日本名・梁川かね子)は国民学校6年で親の反対を押し切って志願。「日本に行けば天皇のために働けるし、女学校にも行ける」という言葉を信じてのこと。名古屋の三菱重工の軍用機の工場で働く。1日10時間の立ち仕事。無給で女学校へも行けず、「騙された」と思った。逃げる事もできず終戦まで働かされ続けた。


鹿児島の知覧から出撃した特攻隊の中にも11人の朝鮮人がいた。パク・トンフンさん。7人兄弟姉妹の長男。15歳で少年飛行士。1945年3月、ソウルで家族と最後の面会。志願の理由を明かしていた。上官に「家族の面倒はみる、心配するな」と言われていた。3月28日出撃、沖縄の海で戦死。16歳であった。2階級特進で少尉となる。「誉の家」と賞賛される。しかし、1945年8月15日、日本の敗戦以後、志願して動員された朝鮮人は母国で対日協力者として厳しい視線を浴びる事に。


名古屋で働いていたヤンさんは戦時中の強制労働に対して訴えを起こし、政府と企業に謝罪と損害賠償を求めた。名古屋高裁は「強制連行」と「強制労働」は認定、請求は棄却。その理由は1965年6月に日韓国交正常化の際に結んだ「日韓請求権協定」による。日本が5億ドルの経済協力供与、それと引き換えに、植民地支配に関する請求権の問題は「完全かつ最終的に解決」とした事による。今年2月、ヤンさんは来日、最高裁で敗訴するも国会議員に「私の恨(ハン)を晴らしていただきたい」と頼んでいる。


韓国では6年前の2004年11月の特別法で「強制動員被害真相糾明委員会」が発足。特攻隊で戦死したヤンさんの二人の妹たちは今年2月慰労金を受け取れるように被害認定を求めた。二人にとってはお金より家族の名誉の問題。ヤンさんは死後2階級特進で少尉になり将校として前例のないケース。「無理やり神風で戦争に行かされ戦死。戦後は協力者として非難された家族に2月19日、審査の結果が知らされた。被害者認定がおりた。生きている内に名誉回復のこの日が来たと二人は手を取り合って喜びの涙を流した。


日中戦争から太平洋戦争の時代、朝鮮半島から動員された軍人・軍属24万人、労働者は72万人以上にのぼる。
日本の皇民化政策がもたらした傷はいまも癒えることがありません。」


「それでも日本人は、『戦争』を選んだ」では、日本人は太平洋戦争で「被害者」意識を持っても仕方がないという説明がされていました。私もそう思っていました。 でも、この戦時動員の皇民化政策の事実は、被害者の下に被害者を作る政策です。身分制度の補完のためには身分の下にモット下の身分を作るといいますが、これもその類です。日本国内では、国家総動員法で有無を言わさぬ徴兵を行い、文字通りそれを数の面でも補完したのが強制連行による戦時動員。「国を奪われ、名前を奪われ、その上、命を捧げろ」と生き残りの朝鮮人元兵士が言っていました。
今、冷静に穏やかに、過去を知る事、教える事、学ぶ事が大切だと思います。