「開放と分断 在日コリアンの戦後」つづき(その1)

百日紅さるすべり)の花
百日紅の花は不思議な花です。遠目には一塊に見える花が近づくと花びらはクレープ状に縮れて中心が開いています。
夏の間の花期が長いので百日紅の名前にもなったとか。夏に元気な花木ですが、サルは滑らず登れるそうです。
さて、シリーズ「日本と朝鮮半島」の第4回のつづき。昨日、すでに第5回が放送されていますので、急がなくては・・・?

1948年1月24日、朝鮮人学校の取り扱いについての通達がだされます。
日本国籍を持つ朝鮮人の子弟は日本人同様日本語の授業を受ける」というもので、GHQの指示を受け文部省が全国の知事宛に出した。
当時、朝連(朝鮮人連盟)の文教部長だった李さんによると「GHQに民族教育を認めるように訴え、どれだけ説明してもわかってもらえなかった」という。
GHQは日本の民族統治の実態を知らなかったので、朝鮮人たちの民族教育運動(言葉を取り戻す)の理解は不能で、治安問題としてしか捉えていなかったようだ。彼らの予想をはるかに上回る反発で、子ども達からのマッカーサー宛の存続の嘆願書がたくさん届いた。「マッカーサー元帥サン僕ラノ学校ヲ絶対ハナシマセン ハナスト朝鮮人ニナレマセン」
当時、検察官として盗聴などをしていたジャック・スワードさんの証言「コリアン社会には共産主義者が日本人より多いと聞いていたので、注意を払いそれらしき表現をチェックしていたが、内容は概ね穏健だった」


朝鮮半島北緯38度線での米ソ共同委員会が決裂。
アメリカは南部朝鮮で単独選挙の準備に入り、これは分断を招くと反対する勢力がいた。1948年4月3日「済州島4・3事件」という米指揮の下、武力弾圧する事件が起きる。アメリカは民衆蜂起が日本に飛び火することを怖れた。一週間後の4月10日、アメリカ極東軍は警告を発する。米極東文書4月10日付、「半島の暴動と連携して在日コリアン、特に大阪地区の異端分子はアメリカ軍占領統治を困難にするためデモを行い暴動を起こし他の民衆騒乱を助けるかもしれない」
全日本の治安を統括している第8軍司令官ロバート・マイケルバーガーの日記から、4月10日「日本の治安を乱す危険分子」として「共産主義者(the reds)と在日コリアン」を挙げている、4月18日「日本に於ける我々の立場はどんどん深刻になっている。ダイナマイトの樽の上に座っている感じ」、4月21日「危険な在日コリアンは56万人もいる、一方我が陸軍は多くの遠隔地に分散され4,5千人しかいない」


1948年4月24日「阪神教育闘争」:神戸で警察を導入した学校閉鎖の強制執行に抗議した在日コリアン兵庫県知事を囲む。知事を解放しようとするMPを交渉団が実力で阻止、知事は学校閉鎖を撤回するに至った。直接制圧にのり出した米軍神戸基地司令官が非常事態宣言を発令、知事の約束は無効とされた。
事態を受け、神戸に入った司令官マイケルバーガーは26日知事室を視察、神戸基地司令官らを集め緊急会議を開く。26日の日記「暴徒が知事室に乱入、室内は徹底的に破壊され、窓は壊され、壁は破られ…」と惨状を記録、武装した二人の兵士が知事を解放できなかった事に対して「任務の遂行中、肉体的被害を受けた場合は相手を射殺すべき」としている。
司令官は緊急会議の直後大阪に急行。神戸と同時に発生していた大阪府庁への抗議行動は規模が拡大していた。生徒、親、教師、労働者、一般市民も加わったその人数は2万〜4万とも云われている。多数の警官が動員され放水を開始、日記によると「20発が発砲され」、その一発がデモに参加していた16歳の少年に命中。貧しい母子家庭の金太一はタバコ売りで家族を支えていた少年であったという。
占領軍の安全を脅かしたとして神戸では1732人が検挙され、136人が起訴され、軍事裁判の結果、重労働や国外退去の刑を受けた人もいた。
当時大阪で抗議に加わった女性の言葉「ナンボ鉄砲の弾が強くても、人間の頭の中の知識はとられない」


占領政策の重大な脅威と見なされた教育問題に、事態の打開を迫られた文部省は朝連代表と交渉に入る。
朝連側は併用を要求、文部省側は授業での日本語教科書を重視、朝鮮語の使用は教育基本法や学校教育法を覆す結果になると主張。
文部大臣森戸辰男は「朝鮮人連盟との交渉経過概要」を表し、交渉の経緯を国会に報告、質問に対して答えて、「古い日本が取っていた朝鮮人政策の誤った罪滅ぼしとして合理的・友愛的政策が行われるべき」。直後、知事宛の通達が出され、朝鮮人学校は私立学校として認可、朝鮮語は課外時間のみ許可される。
広島大学の森戸記念文庫には1948年5月6日付けの文部省通達の草稿があり、最終的に削除された部分が残っている。「過去の日本政府が、朝鮮人の教育ならびに取扱いについて、遺憾の点が多々あったことを深く反省改善」という箇所は閣議で検討され削除された。


京都大学の水野教授の解説では、「1948年の段階で明確な謝罪の意志を示す小さな可能性があったが、その機会は失われた」  つづく