「気仙沼唐桑半島唐桑浜」

新聞記事からの話題が続きますが、今回も、今朝の日経新聞の「社会」と「文化」面から。(本日2つめのUPです)

まず、社会面は大きく東北地方・三陸海岸の漁港を取り上げ、三陸の町、苦悩の漁師」「出稼ぎも」「再生待つ」
その下に「豊かな海もう一度」カキ養殖業者と題する記事があります。
「収穫直前のホタテやカキなどが全滅する中、再出発に気力を振り絞る漁師の姿もある。」という書き出しで、アンテナにあるブログ「リアスの海辺から〜カキじいさんのつぶやき〜」の畠山重篤さんが取り上げられています。(畠山重篤さんは、ブログ「リアスの海辺から」の23日付で、地震津波当日の被災の様子を書いておられます)

津波は入江の最も奥にあるカキ養殖業者畠山さん(67)の会社もあっという間にのみ込んだ。70台の養殖用いかだ、船5隻やいけす小屋、加工場などが全て流された。市内の老人ホームにいた母親(93)も津波で亡くした。「今年は例年よりホタテの育ちがよかった。新しい船を買おうと思っていた」と話す。


それでも「津波の後は、カキやホタテの餌を奪うほかの魚などがいなくなるので生育は早くなる。2年後に再び豊かな海に戻してみせる。皆、海に戻ってきてくれるはず」と言葉に力を込める。(後略)

この頁の裏が文化面で、「広やかな記憶の場を」と題して赤坂憲雄という民俗学者福島県立博物館館長さんが書いておられます。
大正9年1920年)の八月にあの柳田国男が、仙台を基点に、野蒜(びる)・女川・石巻気仙沼・釜石・大槌・吉里吉里・山田・宮古・田老、そして小子内・八戸へと、まさに、この度の大震災によって壊滅的な被害を受けた三陸海岸の村や町を、徒歩や船で辿る旅をしていると書き出されています。この中に、気仙沼湾に浮かぶ大島から対岸の唐桑半島に渡り、半島の突端に近い崎浜に泊まった際に書かれた「二十五箇年後」というエッセイについてふれています。

その冒頭には、唐桑浜のある集落では「家の数が四十戸足らずの中、只の一戸だけ残って他は悉(ことごと)くあの海嘯(かいしょう)で潰れた」とある。この二十五年ほど前、明治二十九年(1896年)の六月、旧暦の五月の節句の夜に起こった「三陸津波」にかかわる、ささやかな聞き書きだった。その残った家でも、津波は床の上の四尺(約120cm)上がり、さっと引いて、浮くほどの者はすべて持って行ってしまった。八歳の男の子が亡くなった。この話をした女性は、津波の時には十四歳であったが、高潮の力に押し回され、柱と蚕棚の間に挟まって、動けずにいるうちに水が引いて助かった。その晩は、三百束ほどの薪を焚いた。海上にまで流され、この光を目当てに泳いで帰った者も大分あった、という。
            *  *  *
柳田の旅から九十年あまりが過ぎた。唐桑半島の村々はまたしても、巨大な津波に襲われることになった。

続けて、「過去の災害の文字なき記録は「話になる話」だけが繰り返され、語り継がれるうちに、しだいに減少し、他の数も知れぬ大切な死者たちの記憶は、肉親の中だけに残り、やがて忘却される。文明年間の大津波は、今では完全なる伝説であり、明治二十九年の大津波の記念塔は村ごとにあるが、その碑文は漢語で書かれており、もはやその前に立つ人はいない」
で、この方は民俗学者として考えます。「二十五年の後に、この大震災はどのように語り継がれているのか。広やかに組織される記憶の場こそが、やがて鎮魂の碑となり、未来へと掛け渡される希望の礎となるだろう」。その新しい方法を私たちは獲得しているのではないか?と「この半島に生きてきた人々が取り交わす、安否情報や消息を求める声」があふれているあるブログに出合ったことから、新しいメディアに「無数の記憶を集積する場」の期待をつなぎます。
私は、たまたま「リアスの海辺」というブログをアンテナに入れて覘いていた縁から、気仙沼市唐桑の舞根湾でカキ養殖をしている畠山重篤氏を知り、今回また、「気仙沼唐桑」という地名からこの柳田国男のエッセイと赤坂憲雄という1953年生まれの民俗学者さんの存在を知りました。畠山さんのカキ養殖が立派に再興され、唐桑の舞根湾がまた豊かな海にもどるのを心から待ち望んでいます。 花ニラの周りはウインタークレマチスの綿毛で布団のよう