「大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話」(1)

先々週に見たNHKETV特集大江健三郎第五福竜丸の元乗組員で被爆された大石又七さんとの「核をめぐる対話」について、気になりつつ、内容が深くて広くて手に負えないかも・・・となかなか手が付かない状態でした。
ところが、先日、夫が山のコーラスの集りで仲間の一人から借りたという写真集「核の大地・チェルノブイリ、そして汚染の世界を行く」(広河龍一・講談社1990)を見て、あの番組と重なる部分が見えてきて、確認したくて録画していた番組をもう一度見てみました。
二人の対話の舞台は夢の島にある第五福竜丸展示館、その船の甲板上です。
大石又七(1934生)さんはその元乗組員でした。1954年3月14日、焼津港へ戻った第五福竜丸は2週間前、ビキニ海域で水爆実験に会い23人の乗組員は致死量の半分と言われる2000〜3000ミリシーベルトの「死の灰」を浴びました。半年後死亡した久保山愛吉さんとは隣のベッドでした。
翌年、1月退院して、その年に東京に出ました。事件は忘れ去られ、第五福竜丸は13年後ゴミの埋め立て処分場であった夢の島で見つかり、募金によって展示保存されるに至りました。大石さんは、福島の原発事故に自分たちと同じ体験をしていると感じ、自分たちの経験が隠されてきた結果なのではと考えている。
ビキニ事件後、差別や風評や見舞金の妬みなどから故郷を離れて被爆体験自体を封印してきましたが、1983年長い沈黙を破り子どもに告げました。そして、体験を書いていこうと決めました。その切っ掛けは、仲間の相次ぐ死。「どうして、こんな目に会い惨めな死に方をしているのに忘れ去られていくのか、あまりに可哀想だ、何かしないと。自分もガンになって、このまま黙っていれば、核兵器と同じで、自分たちも隠されたままになってしまうという心に溜まった怒りのようなものが書かせた。核兵器と言う大きな問題が隠されていて、その為に自分たちも隠されているということが分った。体験者が話さなければ同じことが繰り返されるということが、歳をとって分ってきた」と語っています。
一方、大江健三郎さん(1935生)は一貫して「核と共存できるか」に取組んできたが、福島の原発事故には今書いている最後の小説の内容変更を迫られるほどの衝撃を受けたと言う。高校卒業後2年目の東大入学の年に一歳年上の漁師が被曝していると、そのとき大石さんの名前を知ったという。それから57年の時が経って・・・広島・長崎ービキニー福島、と三度の被爆の経験をした今、二人が語ります。


対談の内容をまとめてあるブログを探しました。見逃した方はコチラで(http://minoma.moe-nifty.com/hope/2011/07/qe0-60bf.html
ここでは、番組が対談の間に挟んだ解説映像から、「広島・長崎、その上にビキニと2度(3度)の被爆を経験している日本がなぜ簡単に原子力発電に飛びついたのか」という疑問への解答になる経緯について取り上げてみます。

1954年3月1日アメリカは水爆ブラボーの実験を秘密裏に行いました。それより1年前の1953年8月12日、ソ連が水爆実験に成功。
遅れをとったアメリカはその年の2月8日、国連でアイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」という核軍縮の提案をします。
ところが、そのわずか3ヵ月後にアメリカが隠れて核実験を行ったことが第五福竜丸被爆によって世界に知られ、非難を浴びます。
特に日本での反発は激しく、放射能パニックを引き起こし、3人に1人が反対の署名運動に参加したと言われるほど。
社・共左翼の反対運動が勢いを増すのに危機感を持ったアメリカ。
第五福竜丸以後の対日政策を記したアメリ国務省の文書がある:核兵器に対する日本人の過剰な反応によって核実験続行が困難になり、原子力平和利用計画にも支障をきたす。そのため『日本に対する心理戦略計画』を検討すべきである」。
当時日本での世論工作に従事していたアメリカ政府の関係者ダニエル・S・ワトソンへの18年前のNHKのインタビューがある。
日本では新聞を押さえる事が必要だとはっきりわかっていました。それも大きな新聞を。
日本の社会は新聞に大きく影響を受けます。日本人は1日に最低3紙に目を通し、それから自分の意見を組み立てます
。」
この人物が接近した相手は当時の讀賣新聞社社主、後に国会議員となる正力松太郎でした。
「日本は原子力の平和利用にうってつけの国。なぜなら国内にエネルギー資源がほとんどないと言うのが私の話のポイントでした。それを聞いた正力は目を輝かせていた」。

正力は財界に働きかけて、1955・4・28、原子力平和利用懇談会を発足させ、受け入れ準備を進めていく。
有力者、電力会社、科学者、新聞、テレビが大キャンペーンを行い日本人の不安を取り除き、原子力の新たな可能性を訴える。
そして、事件10ヵ月後、ビキニ事件に日米合意の幕引きが。
見舞金200万ドルで、責任を問わないと言う日米合意文書に1955・1・4、調印。事件は急速に忘れ去られる。
同じく、政界でも、中曽根康弘氏が提案し、原子炉予算23500万円が成立。
2年後、1957・8・20、茨城県東海村の原子炉が動き出す。ビキニの水爆による日本人被爆から3年後のこと。

大江さんはこの頃、戦争責任を問われる人たちが表舞台に蘇って、その関係は今も続いていると指摘。大石さんがどうして戦争の場合と同じように、原発についても・・・と大江さんに質問し、大江さんはそこが「あいまいな日本」だと。この辺も引用ブログで確かめてみてください。
NHKのこの部分と重なる記述を「核の大地」の「標的にされた日本人と応えた日本人」より。

 アメリカではGEとウエスチングハウスを中心とする大企業が、原子力と言う新しい商品を国外に輸出することを準備していた。これこそアイゼンハワーの声明の意図することだと指摘する人も多い。('54年の国連での「原子力の平和利用」という声明=蛙注)
 やがて、アメリカの標的は日本だというニュースが伝わってくる。
 アメリ国務省の「諸外国の原子力の経済的利用」という報告は、電気のコストの低いアメリカよりも、高い日本の方が、原発に適していると述べた。
 またアメリ原子力委員会のマレーは「広島や長崎の記憶が生々しい日本のような国に原発を建設することは、われわれが両都市に加えた殺傷の記憶を乗り越えるための、ドラマチックで、キリストの教えにもかなうジェスチャーになるだろう」と述べている。
 また下院議員のイエーツは、広島に原発を建設する決議案を議会に提案した。
 日本の原発の始まりは、54年の3月2日に突然、衆議院に提出された、原子炉築造予算修正案と言える。この修正案を出したのが、中曽根康弘であった。日本を、原子炉売り込みの明確なターゲットとしていたアメリカと、群馬の青年代議士中曽根は、どのような回路で出会っていったのか。
 中曽根は海軍将校時代に、呉から広島の原爆雲を見上げ、これからはこのすごいエネルギーの時代になると直感した、と書き記している。
 中曽根は50年に最初の欧米旅行に出かけた。道徳再武装運動の世界総会に出席するためだ。
 中曽根の2度目の訪米は’53年のハーバード大学夏期セミナー参加だった。
 そのとき中曽根は、原子力に詳しい人物として山本秀雄(旭硝子)を紹介された。山本は中曽根を回想して語る。
 「原子爆弾をもし戦争に使うと、後始末が大変だから、もっと小さい戦争に使うような原子力兵器を研究している、という”USニュース”っていう雑誌を見せたら、中曽根さんが”これだ!”と言われてですね……」。そこには小型の核弾頭装着の、砲弾発射実験の成功が報告されていた。
 そしてアメリカから戻ったその翌年、彼は突然、原子炉予算案を国会に提出するのである
 当時毎日新聞記者だった河合武は、中曽根が「学者がぼやぼやしているから、札束で頭をぶんなぐってやるんだ」と言ったと書いている。中曽根自身はこの発言を否定しているのだが、服部学も、学術会議の友人を通じて、予算の修正案提出の翌日に中曽根が言った「学者がぼやぼやしているから……」という言葉を聞いているという。
 日本の原発誕生の舞台裏には、このようなドロドロしたものがうごめいていた。(P107)

未確認情報ですが、この中曽根氏が孫正義氏の集会で脱原発と言ったとか・・・本当なら、3・11以後の変化は歓迎ですが。ニュースで取り上げられていないのは本当じゃないからか、或いは本当にホントだからか・・・? 
とにかく日本の原子力発電はアメリカから二人の日本人を通して日本に導入され、元々は軍事的利用を目標に入れていたことも分ります。「核をめぐる対話」つづく