前半はコチラ:
- ETV特集 -「白い灰の記憶〜大石又七が歩んだ道〜」(前半) - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)
◎学芸員の市田さんが尊敬するきっかけになったのが大石さんの怒りだと仰っています。3度目の被曝と言われたビキニ事件の被爆者の一人として福島の原発事故は許せない第4の被曝。誰も責任を取らないから繰り返すのではないかと大江健三郎氏に迫る大石さんです。でも、700回を超える講演活動を通して若い人たちに大きな影響を与え、そして大石さんの核なき未来への志を受け継ぐ人たちも育てて、長女の佳子さんの「豊かな人生」だったのではという言葉。後半の書き移しです:(最後の市田さんの大事な言葉がスローにして聞いても聞き取れないのが残念ですがそのままで・・・)
「白い灰の記憶〜大石又七が歩んだ道〜」(後半)
N :ビキニ事件からちょうど50年たった2004年、大石さんは水爆実験が行われたマーシャル諸島を訪れた。自分と同じように死の灰で被曝した現地の人々と交流するのが目的だった。水爆ブラボーが爆発した時、82人が暮らしていたロンゲラップ島。人々は降り注いだ死の灰の中に深く置き去りにされた。
アメリカは人々を避難させた後も治療を行わず血液や尿を採取して放射線の影響を調べた。やがて島に戻った人々に甲状腺の腫瘍や癌が続出する。女性では乳がんや異常な出産が相次いだ。不安を募らせた人々は1985年に故郷を離れた。
マーシャル諸島の首都マジュロ。大石さんは模型の船を持参していた。ビキニ事件を伝えたいと願って作り続けてきた第五福竜丸。これで8隻目だ。故郷を離れて暮らすロンゲラップ島の人々がこの日久しぶりに集まっていた。
ビキニ事件の当時村長だったジョン・アイジャインさん。
大石さん「ラッキードラゴン」ジョンさん「素晴らしいですね」
ジョンさんの息子レコジさんは1歳で死の灰を浴びた。
4年後、白血病で再びアメリカへ運ばれ、その3か月後、レコジさんは19歳で亡くなった。アメリカのメディアは「人類の水爆死 第1号」と書きたて、ようやくマーシャルの核被害が知られる。
「アメリカは自分たちをモルモットのように扱う」とジョンさんはそう考えてきた。
ジョン・アイジャインさん「水爆の犠牲者について、アメリカはまだすべてを報告していません。ロンゲラップの被爆者についていえば、レコジの前に2人が亡くなっています。レコジだけが犠牲者ではないのです。大石さんの主張は正しいことですし、一人で闘う姿に敬意を表します。強い人ですね」 (ジョンさんは2004年に亡くなった)
大石さん「私の息子も最悪の状況で生まれて…生きていれば……言葉がない」(と口元を押さえて嗚咽をこらえる)
大石「水爆の被害というのは、なおざりにされてきている。月日だけがどんどん流れていく虚しさと、やはり、人と人との争いのために、無関係の弱い人が被害を受けているのは、人間がもっている何て言うか理解できないものをしんみり感じましたねぇ~何とかできないかなと思いながら何もできないもどかしさみたいなものも感じました」
N :ビキニ事件から半世紀余りが過ぎた2011年、東日本大震災になって福島第一原発がメルトダウン、深刻な放射能汚染が広がり人々は避難を余儀なくされた。
福島原発の事故から2か月後、大石さんは作家大江健三郎さんと対談。長年抱いてきた疑問を投げかけた。
大石さん「一つね、お伺いしたいのは、いつも疑問に思って分からないのは、私も戦争の経験はしてないけど、戦争の中で育ってきました。日本人は軍国教育を受けて、戦争が終わって、戦争をした人たちが責任を取らない。ハッキリとあれは責任あるよなっていうのを見てますよね。それが責任を取らないで、またこう動きだしている。
今度の福島の原発問題も、また大きな問題が持ち上がった。導入した者、推奨してきた者、そういった人たちが、一切顔を出さないで責任を取らない。そういうのを一般の国民として、どういう風に受け止めて、どう理解したらいいのか疑問に思っている。こういう人たちは、なんで世の中でいつも居座って、大きな顔をしている。なんで、なのか」
大江健三郎さん「これは責任を取るべきでないか、という…例えば、これだけの小さく見積もっても1万人の人を苦しめるという大きな罪を犯してしまった人が、責任を取らないというのがある。私たちの国の人間の習慣じゃないか、ずっと昔から続いているんじゃないかと思んですよ。『日本人のあいまいさ』と言っているんですが。これは、正しく筋を通すべきじゃないか。それを、あいまいにしておくということで、その人も安全で済むし、相手もあまり追い詰めないという考え方が、この国にある。それでは、どうしても行き詰まってしまう時が来るに違いないと私は思う」
(番組スタッフの声)「見てました?」
第五福竜丸展示館学芸員市田真理さん「見てましたけど、私はその辺に小さくなっていて…… ただ声は聞こえていましたから。
すごく印象的だったんですけど、最後の方で大石さんが、責任について問われて、あの戦争もビキニ事件も原発の事故も、誰か責任取るべき人がいるのではないかと言ったのは、私すごく印象的だったので首を出して眺めたかった。
テレビでそれを後で見て、大石さんのこだわりがそこにあるなと思いましたね。それについていわゆる著名な知識人に何か自分が確かめられる言葉がほしかったのかな~。凄い質問だと思いました」
N :2001年から展示館で働く市田さん、大石さんの言葉を広く伝えたいという思いを募らせていた。ところがこの対談の翌年、大石さんは脳出血で倒れた。
リハビリに8か月を書けて、大石さんは講演活動に復帰。後遺症で自由に語れない大石さんを補う形で市田さんと大石さんのコラボ講演が始まった。
男子学生「日本には原水爆の恐ろしさを伝えたゴジラという映画があるんですけど、大石さんはどういった方法で世界にこういった原爆の恐ろしさや日本の平和に対する思いを伝えるべきだと思いますか」
大石さん「色んな最高の勉強をした指導者たちがみんな戸惑っているのに、私にその答えはなかなか難しいです。ただね、難しく考える必要はないと思うんです。幼稚園の子どもでも分ることだと思うんです。相手が怖いものを持てば、こっちも持たなければやられてしまう。だから相手が持ったらこっちも持つという競争をアメリカと北朝鮮で今やってますね」
市田さん「今、大石さんが仰ったことを難しい言葉で言うと「核抑止」といいます。
(あと市田さんが詳しく現在の国際情勢も説明)
大石さん「この古い60年前の事件のことをきちっと若い人たちに通じるように話してくれるのは市田さんしかいないんじゃないかと私は思っているし、私は本当に有難いと思って感謝しています」
市田さん「こんなに真剣に怒る人、怒り続ける大人を私は見たことがないなーというか、私が大石さんを尊敬するきっかけなので。
身体が不自由になっても、とにかく真剣に答えようとするし、発信しようとしているし、何ていうか死ぬまで闘い続けますっていうのが、言葉の綾じゃなくて本当にこの人.闘い続けていくんだろうなと思わされる迫力がありました。ただ上から目線で話さない、その大上段に構えて教えてやる、聞けよ、みたいじゃなく、そこは凄く大石さんの、優しい…とも一寸違うんですけど、すごく丁寧な方だと思います」
N:水爆ブラボーの実験から67年、今、世界の核兵器は1万3千発以上。
新型の小型核兵器は標的をピンポイントで攻撃できるという。
いわゆる使える核兵器だ。私たちは危機の只中にいる。
大石さんは警鐘を鳴らし続けた。
市田さんが大石さんから託されたものがある。
大石さんの話を聞いた小学生、中学生、高校生から送られた感想文。
市田さん「80年代からずっとなので、かなりありますね。子どもたちが感動したことなどとか、こんなのが」
「送られてきたものは捨てないで全部こうやってとってあります。大石さんにとって、自分が講演で話したりとか本を書いたりして発信する以上に、こうやって戻ってきたものが宝物だったんだと思います」
「この感想文があるから、これを持って行かせるから、何とか本にするなり世間に発表してほしいって、冗談じゃないと思ったんですが、受け取って見ると、やっぱり私がちゃんと読み込まないといけないと思って」
感想文:「何が大石さんに活動させているのか?」「でも大石さんは第五福竜丸に活動させられているような気がする」(と書いてある)「同じ船に乗っていないからつらさなんてわからないけど記おくしていることができると思う」
市田さん「自分に何ができるか…という次元で考えていますね。理解というか記憶して忘れないで伝えていく。自分に何ができるかと一生懸命考えている。すごいなぁー」
手紙を読む教師「私たちが大石さんやその他の方々の気持ちを十分理解することは無理だと思います」「でも理解しようと努力することは出来ます。私たちは少しでも分るように努力します」「簡単に理解できることはないだろうと思います」
N :斎藤あずささん。大石さんに手紙を書いた当時中学2年生の少女は母校(神奈川学園)の教師になった。今度は教え子と一緒に何度も大石さんの話を聞いた斎藤あずささん。社会科の教師を選んだのは大石さんの影響があったからだという。
クラスに招いて話を聞いた後も大石さんとはずっと手紙のやりとりが続いた。
斎藤さん「いろんな言葉を頂いたと思うんですけど、1つは女子校の中学2年生の時に話して下さるときに、『人類の歴史は男が破壊を繰り返し、それを女性が必死に守り育てていることを知った』
これから、次の生命を育んでいく女性の皆さんにぜひ覚えていてほしいと仰ったことが強く印象に残っていますし、あとはやっぱり、平和というものは、ただ一人だけではできていかないと何度もお話してくださって、そういったことを自分自身がどんなふうに実現していくんだろうってことを考え続けて進路を選択して、教員としても考えつづけていく、そこが、自分として、大石さんとの約束というか、大石さんに頂いた宿題のように思いながら過ごしている状態です」
N :2019年、骨折した大石さんは三浦半島の高齢者施設で暮らすことになった。
長女の佳子さん「施設にどうしても入らなくてはいけなくなった時に、海の見えるところにしてあげようと頑張って探しました」
N :最晩年も施設の近くで大石さんは語った。
2019年12月。これが最後の講演になった。
大石さん「ばかの一つ覚え。一生懸命やるってことはいいことかなと今考えてます」
市田さん「ある朝、朝早く、大石さんから電話がかかってきました。4時半か5時頃、何が起きたかと思ったら、あの人が長崎に来るから。あの人って、だれ?」
N :この年、ローマ教皇が長崎と広島を訪問。大石さんは訪日前の教皇に手紙を書いた。
市田さん「なんで手紙出さなきゃって思ったの」
大石さん「やっぱり広島、長崎だけが日本で被爆したわけじゃない」
市田さん「おかしいだろって怒ってるのね」
大石「日本なら、やっぱりビキニを入れてくれなきゃ。第3の被曝と言われた場所だもんね。だから、やっぱり、どうしても、あの方(ローマ教皇)には第3の被曝のことを頭に置いていろいろ話をしてもらいたいなと」
市田さん「あゝ、あの人来るんだね~て感じですね」「いやぁ~」「ホントに。私、仏教徒ですし・・・。大石さんは、やっぱり、発信力のある人にはキチンと伝えなさいって」大石さん「俺だって仏教徒だよ」市田さん「ねぇ~」(笑)
核兵器禁止条約は世界の被爆者の願いです。これ以上核兵器や放射能による被害者を出してはいけません。
ビキニ事件は核兵器反対運動の原点です。これは遠い過去に終わったことではなく、未来の命に関わる事件です。核兵器のない未来のために、世界に向けて平和の願いを発信してください。
N :2021年1月。核兵器禁止条約発効。(2017年、国連で採択)
50か国以上が批准して今年1月に発効。しかし核保有国もアメリカの核の傘に頼る日本も参加しないままだ。
大石さんと長女の佳子さんが最後に会話を交わしたのは翌月2月11日。
佳子さん「今はコロナだから外に出ることは出来ないから、今は出せないっていうと、もういいよ、お前は早く帰れ、帰れ、とものすごい怒りまくって『早く帰れー』ってそれが最後の言葉なんですが、あぁ、父らしいわねって、ところなんですけれど。
とにかく、早く外に出たいという気持ちは強かったと思いますね。いつ死んじゃうか分からないから死んじゃう前に、まだまだみんなに言いたいことがある、伝えたいことがあるという気持ちがあふれ出ちゃったんだと思います。
80過ぎてもこんな風に皆さんに気にかけていただいて心配していただいてっていう人生を送れたっていうのは、やっぱり素敵な人生だったんじゃないかなって思います。
前半は辛かったけど、後半はとっても豊かな人生だったと思います」
N :3月7日、大石又七さんは87歳の生涯を閉じた。
今、市田さんはビキニ事件と大石さんの言葉を語り伝えている。
市田さん「振り返ると西の空にキノコの形じゃない雲がワぁ~と押し寄せてきた。そして大石さんの言葉によると、低気圧のようだったとおっしゃるのですよね。あっという間に一面黒雲に覆われて、雨がふってきて、熱い空気の塊がバァーって吸い上げられていって上空で冷やされて、そして水滴になって落ちてくる。
雨は上がっているけれど、白いものがバラバラ落ちてきて、濡れているところにくっつくし、目に入るとチクチクするし・・・。
何度も私、聞いたんですね、怖くなかったですかって。
怖がれない。つまり、怖いかどうか分からないから・・・・
残念ながら大石さんは今年の3月に亡くなられましたけれども、私は少なくとも、その大石さんの願いや声をそばで聞いた人間の一人として、この事を皆さんに伝えて、皆さんも一緒に考えてほしいなーと思っています。
この船は、こんな風に固定されて完全に室内に置かれて、二度と再び海を走ることはありませんが、第五福竜丸は核のない未来に向かって今、航海中ですっていうのが私達の合言葉です。どうぞ皆さんもこの航海に〇〇下さい。」
語り:大後寿々花
「未来に向かって航海中です・・・」 終り