チャリティーコンサートとリストとピアノ

昨日は3時開演のピアノとヴァイオリンのデュオコンサートを聞くため近くのメープルホールに出かけました。
先週末チケットをポストに入れて下さったUさんのピンチヒッターです。
サワディープロジェクトという「タイの子どもたちに絵本を贈るための会」主催で、東日本大震災復興支援も兼ねての今回5回目のコンサートだという事です。
プログラムの説明では、タイ語で「サワディー」とは「こんにちは」「こんばんは」という意味だそうです。1998年に箕面市の国際交流教会が主催したタイへのスタディーツアーに参加した人々が、自分たちが出会った貧しい地域の子どもたちを支援しようと始めた活動とか。
ピアノの村越知子さんとヴァイオリンの村越伸子さんは姉妹でミラノ在住。Uさんのお話では定期的に日本との往来があって、教室の生徒さんが沢山おられるというお話です。ピアノの知子さんはイタリア国立トリノ音楽院卒業で国際コンクールの1位受賞や、関西フィルテレマン室内管弦楽団、アンサンブル神戸、バルトーク弦楽四重奏団などとも協演、2001年度「青山音楽賞」、2010年神戸灘ライオンズクラブ音楽賞受賞。
ヴァイオリンの伸子さんは、東京藝術大学卒業、渡欧。クレモナ市の国際アカデミー、ピエッラ市の国際音楽アカデミーのマスターコース修了。ナポリの国際ヴァイオリンコンクール3位、ヴィニョーラ国際コンクール室内楽部門2位、と演奏者プロフィールにはもっと詳しく書かれていますが・・・。

プログラムに従って、まずドヴォルザークのユモレスクから。プログラムノートの代わりにとマイクをもって伸子さんの解説から始まりました。繊細なヴァイオリンにピアノがシッカリ就けていきます。モーツアルトベートーヴェンで前半終了、休憩。
後半はピアノソロで今年生誕200年のリスト。メープルホールのピアノは珍しいドイツ製ベーゼンドルファーです(PSへ)。これが、超弱音から最強音までを駆使した力技の難曲ですが、この曲にピッタリの音色と響き方でした。見事な演奏だったお姉さんのトークは、イタリアでの東日本大震災についてのお話でした。教会で日本支援の演奏会に参加したが、イタリア人の熱心な参加と何かしたいという想いが有難く、日本は好かれているんだと再確認できたと話しておられました。ピアノソロの後はお二人でマスネのタイスの瞑想曲、最後はヴァイオリンでラヴェルのツィガーヌ。「ツィーガーヌ」というのは「ジプシー風の」という意味で、なるほど旋律のアチコチにジプシーメロディが聞きとれました。その後は、「恒例の」ピアノとヴァイオリンとオカリナが加わった伴奏で会場中で「大きな古時計」と「夏の思い出」の合唱です。久しぶりに声を出して歌いました。
その後は司会者に呼び出されてタイの副領事さんのご挨拶。
この方の日本語での挨拶が少し長かったので、途中、席を立って帰る人たちも。5時近くになっていましたので。

でも、日本の奨学金で70年代に東京の大学と大学院で8年の日本留学体験があるという、3週間前に赴任したばかりの女性副領事さんのお話はユニークで面白かったです。日本は先進国で、外務省の中でも赴任をめぐる競争率が高いんだそうで、やっと大阪赴任が決まった。今回は、多分定年前の最初で最後の日本になるはずとか。大震災のニュースにアチラでも皆心を痛め、何か出来ないかと募金を募った。こんなに海外に向けて沢山募金が集まったのはタイでは初めてのことで、先進国の日本に発展途上国のタイが支援というのもおこがましいが精一杯の気持ち。私にとっては第二の故郷でもある日本は必ず復興できると思っているので頑張って下さい、というご挨拶でした。
最後にサワディープロジェクト代表の川井ピラヤットさんが美しいタイの民族衣装でご挨拶に(↑写真)。ステージに立ったのは全て女性という催しでした。Uさんのお陰で、久しぶりに生のピアノとヴァイオリンが聴けました。
PS:ドイツ製で間違ってないかな?と自信がなくて調べてみてよかったです。オーストリアの宮廷御用達のピアノでリストと関係大有りでした。

ベーゼンドルファー社はモーツァルト、ベートヴェン、シューベルト、リストなど、音楽歴史に名を残した偉大なる作曲家たちを輩出した「音楽の都ウィーン」で、1828年に設立されました。創業者のイグナッツ・ベーゼンドルファーはウィーン生まれの職人で19歳の時、オルガン製造者のヨーゼフ・ブロッドマンに弟子入りし、弟子の中でももっとも優秀な弟子だったと言われています。当初から高品質、高水準で素晴らしい名声を得ており、1830年にはオーストリア皇帝から初めて「宮廷及び会議所ご用達のピアノ製造者」の称号を授けられました。


音楽の都で誕生したベーゼンドルファーは数多くの大作曲家、巨匠と呼ばれるピアニストの助言によって研究と改良を重ね続け、「ウィンナートーン」と呼ばれる美しい音色を生み出しました。音楽家の中で特に交流が深く、ベーゼンドルファーピアノを世に知らしめたのは、激しい超絶技巧のピアニストとしてヨーロッパ中を湧かせていたフランツ・リストでした。リストはピアノについて実に要求が多く、そればかりでなく彼の演奏はエネルギッシュなもので、演奏会で2〜3曲弾き終えるとピアノが大抵使用できなくなるほどでした。その中でも彼の激しい演奏に耐えた唯一のピアノベーゼンドルファーだったのです。その後、ベーゼンドルファーはリストの名声と共に世界中に知れ渡って行きました。
                (「ベーゼンドルファーの歴史」より http://boesendorfer.jp/about/history.html

因みに、メープルホールのベーゼンドルファーの弾き初めは、ダン・タイ・ソンでした。