箕面で世界初の「左手のピアノ国際コンクール」が開催されることに。テレビや新聞でも少し取り上げられていましたので、大勢のお客さんが来られてチケットは無理かもという1週間前、前回のモーツアルトのクラリネット協奏曲の演奏会が終わった後、夫がホールのある中央生涯学習センターまで出かけてチケットを求めてきました。
日曜日の4日、午後5時開演の記念コンサートに出かけました。地元の方たちが来られていたのか…知った方には会えなかったのですが、コンクールの関係者が多かったようです。本選の余韻を残して高揚した感じの〝左手のピアニスト”智内威雄(箕面市在住)さんが、プロ司会者がインフルエンザでダウンしたのでと司会者と演奏の掛け持ちで頑張っておられました。
2018年11月2〜4日、大阪府箕面市にて「第1回 ウィトゲンシュタイン記念 左手のピアノ国際コンクール」を開催します。「左手のためのピアノ曲」にフォーカスしたコンクールは世界初の試みであり、左手のピアノ曲のさらなる発展と充実を目指します。そして障がいの有無にかかわらず、ピアノ演奏による表現を競い合います。本コンクールは、左手のピアノ曲の認知向上にとどまらず、ピアノ演奏を通した地域社会との連携も視野にいれ、国際文化交流を育む箕面市と関連する諸団体、市民と共に世界に向けて発信します。応募部門は、プロフェッショナル部門とアマチュア部門の2部門になります。
障害のため右手が利かず左手のみの演奏というと、このコンクールの顧問にも名前が載っている舘野泉さんが有名です。でも、このコンクールは「障害の有無にかかわらず」、両手演奏家も左手でコンクールに参加しているのがいいですし、「左」と言わず「片手=One Hand」とプログラムに明記しているのもいいなと思いました。
実行委員長より
皆さんこんにちは、左手のピアニストの智内威雄です。このたびは大阪府箕面市にて、世界初になる「左手のピアノ国際コンクール」を開催する運びとなりました。
“苦難の歴史を乗り越えた芸術を、開かれた未来のために”をスローガンにこれまでも「左手のピアノ音楽」の普及活動を行ってきました。その2度の世界大戦で発展した演奏分野は、楽曲の外面的な美しさだけではなく、近代の世相をも映しだす類い希なレパートリーです。約300年続いてきたと言われる左手のピアノ音楽ですが、その演奏分野に特化したコンクール・コンテストが行われた記録はなくクラシック音楽史上初めての試みになります。
第1回の左手のピアノ国際コンクールは、国際文化交流を育む箕面市と関連する諸団体、市民と共に世界に向けて発信を行います。
皆さんの参加をお待ちしています。
◎「第一回ウィットゲンシュタイン記念」と銘打ってありますが、「ウィットゲンシュタイン」という名前が気になって仕方がありません。どうも音楽以外で聞いたことがあるはず、・・・智内さんは、戦争で右手をなくして左手でピアノを弾いた先駆者というお話をステージでしていましたが、調べてみました。お兄さんが有名な哲学者でした。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パウル・ウィトゲンシュタイン(Paul Wittgenstein, 1887年5月11日 - 1961年3月3日)は、オーストリア生まれのピアニスト。第一次世界大戦で右腕を失った後も演奏活動を続け、多くの有名な作曲家に左手だけで演奏可能な作品を委嘱したことで有名である。1946年にアメリカ合衆国の市民権を取得した。
アシュケナジム・ユダヤ人の実業家カール・ウィトゲンシュタインの息子としてウィーンに生まれる。2歳年下の弟に哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいる。
ウィトゲンシュタイン家には多くの著名な文化人が出入りしていた。その中には作曲家ブラームス、マーラーそしてリヒャルト・シュトラウスもいた。若きパウルはこれら作曲家と連弾で演奏もしたという。
パウルは、はじめマルヴィン・ブレーに、後にポーランドの巨匠テオドル・レシェティツキに師事、1913年にはデビューを飾っており、演奏評はおおむね好意的なものだった。しかし翌年には第一次世界大戦が勃発、パウルは召集される。彼はポーランド戦線で戦傷を負い、ロシア軍の捕虜となる。そしてこの戦傷のため、右腕は切断しなければならなかった。傷が回復するにつれ、彼は左腕だけで演奏活動を続ける決心を固めた。
終戦とともにパウルは行動を開始する。練習を重ね、様々の作品を左手だけのために編曲し、またかつての師ヨーゼフ・ラボール(ラボール自身は盲目であった)がパウルのために作曲した作品を習得した。こうして再びコンサート活動を再開したパウルは有名になり、多くの人々に愛された。
そこで彼は、より有名な作曲家たちにも自分のための曲を作曲してもらえるよう交渉した。ブリテン、ヒンデミット、コルンゴルトなどがそれに応じて作曲した。中でもモーリス・ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は有名であり、パウル・ウィトゲンシュタインの名もこの曲で後世に残ることになった。
記念コンサートはアマチュア部門の入賞者の発表と演奏、智内氏の演奏、休憩、プロフェッショナル部門の入賞者の発表と演奏、智内氏の演奏、記念撮影と箕面市長から花束が渡されて終わりました。(7時半から受賞者のパーティ) 7時過ぎ飛び出して5分ほどで帰宅。
写真左からアマチュア部門の三人。着物姿の久本久子さん、濱川礼さん、木田なおみさん。
続いて、3人がプロ部門。メガネの高岡準(ひとし)さん、2位のガン・チャイキティワッタナさん、3位の高校3年生の早坂真子さんと、笑顔の瀬川泰代さん。この方は2005年に右手指を患い、以後左手のみの楽曲と出会い、現在左手のピアニストとして国内外で演奏活動を行っておられます。
右手側は審査をされた先生方。花束を手にマイクを握っている智内氏。
左手のピアノ演奏が「戦争と平和」に深い関りがあることを知りました。箕面市は昭和60(1985)年に非核平和都市宣言をしていますし、平成5年には人権宣言をかかげて「人権の街」としても名乗りを上げています。「今年2018年は世界人権宣言が国連で採択されて70年になる節目の年」なんだそうです。息子たちが中学生のころから、人権教育は盛んでした。行き過ぎた面もありましたが、部落問題や障害者、在日朝鮮人の差別に対する教育も熱心でした。
箕面市は外国人の方も多数住んでおられますし、大阪外大、今は阪大の外国語学部かな、も箕面にあります。言いっぱなしの”宣言”だけに終わらず、こういうイベントが開催され、それに市が協力体制でバックアップするというのはとてもいいことだと思いました。
中山千夏さんの写真のパンフレットはホールのロビーでいただいたもの。第33回人権フォーラムの今年の統一テーマは「いっさいの差別を許さないために 話す、語る、伝える、分かち合う」です。全大会と分科会、8日、9日、2日間です。
中山千夏さんは全大会の記念講演をされます。昨年は平家物語と重なって聞けなかったのですが、高村薫さんでした。パンフレットによると、中山千夏さんは「1948年、世界人権宣言の年に私は生まれました。しかし、それを知り、人権の何たるかを考え始めたのは、もうハタチを過ぎてからです」「さいわい私は『女性』だったので、差別と出くわし、我が事として人権を考え始めるきっかけを得ました。そして今では、人権思想こそ、人類が到達した最高の叡智だと考えるにいたっています。」