映画のあとで・・・そして、脱原発

映画「ツリー・オブ・ライフ」を見たから、と言う訳でも、否、見たからかも、昨夜は家にいる下の息子との会話が弾みました。久しぶりに東京にいる上の息子にも電話をしてみました。
夫は、若い頃、長男で不慮の死を遂げた兄を父親が徹底的に大事に育て(そういう時代でした)、次男坊の自分は父親に愛されてはいなかったという思いをず〜〜と持っていました。結婚して、兄が亡くなって、長男代わりに実家に呼び戻されて2年、私も同居したのですが、義父は嫁の私には優しい人だったという思い出しかありません。あの映画を見て、夫が、「自分にもあった」というのは、この義父との確執のことです。私が、「そうね〜、男親と長男には・・・」と思い当たるのは、東京の長男と父親である夫との、かつてあった確執のことです。
母親は、信仰心がなくても、父親の行き過ぎには抗い、息子の非道はたしなめ、後は、ただ見守る事しかできません。でも、子どもが育つには、そうやって乗り越えるべき壁、否定されるべきお手本の存在が不可欠です。壁の無い家庭では、どちらかが両方の役割をすることになり、壁が無い事に悩まなければならないでしょう。
子育て最中の親は、今の姿勢が子どもにとって本当に良いのかどうか判断できないものです。ただ、一生懸命子どものためにと思っていることだけは確かだということが支えです。我が家の場合は、東京の息子が帰省した折、下の息子と昔話になり、厳しい我が家で育って良かったと言ってくれたことがあり、私は、子育て終了証を受け取ったような安堵感を覚えました。勿論、すぐ夫にも話しました。問題は、二人の子どもたちが未だに結婚せず、家庭を持っていないことです。でも、それを望めば、欲張りにもなります。健康で仕事があって、ひと様に迷惑をかけていないのであれば、今の時代、これ以上は成り行きに任せて・・・と、あらためてこんな思いになるのは、あの映画を見たから・・・なのでしょうか。

さて、下の息子との話題提供になってくれたのは、イギリスの暴動でした。ロンドンと言うには事態は広がりすぎました。避暑地のイタリアから急遽戻ったキャメロン首相のあの言い方では収まらないでしょう。ストリートギャングと一言のもとに切り捨てたのでは、事態は収まらないでしょう。警察の初動の対応に問題ありと、アメリカから専門家を呼ぶ、というのでは、警察もやる気をなくすし、収まらないでしょう。こういうニュースを見ても、気になるのは地震津波原発の被災地です。切捨ててはいけません。

今朝のブログを覘くと、小出裕章さんが、13日、沖縄で講演された冒頭の言葉が取り上げられていました。
私は動画より、書き起こしで読む場合が多く、その書き起こしブログさんが書いておられるのですが、小出氏はレイモンド・チャンドラーのあの有名な言葉、「強くなければ生きられない。優しくなれないなら生きる価値がない」を取り上げて、「この世界にはもちろんみんな生きてて、強い人が生き延びてるわけだけれど。優しくなれない人は生きる価値がないとチャンドラーは言うんですね」と言って、「7年前のこの8月13日は、米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した日でした。その際に放射性ストロンチウムが消失あるいは撒き散らされ米軍によって極秘に処理された。現場には飛散防止剤がまかれ、土はごっそり入れ替えられ普天間基地に持ち帰った。」とこの日の講演が始まりました。
私が、取り上げたいのは、この次の言葉です。「私は小出裕章氏の講演が素晴らしいと思う理由はいくつもあります。科学的な検証もさることながら、講演を印象づけるためにストーリーを描いていることも理由の1つです。国会に参考人に呼ばれたときもガンジーの言葉で最後を締めくくっていました。
 人間の脳はデーターだけでは左脳に訴えることになります。それは記憶に定着しづらいといわれています。小出氏は科学的見地を持たない人間に対して伝わりやすい講演をプランニングしているといえましょう。今、小出氏の講演に多くの人が集まるのは、残念ながら原発事故が起きてしまったことがきっかけです。そして、聴衆を魅了しているのは、氏の講演が聞く者に、チャンドラーの言葉を借りれば「優しい」ものであるのは疑いようがないと私は思います。」(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65757655.html
この「伝え方」の大切さに気づいたと書いておられるのが、先日紹介した主婦の立場で書かれた小冊子「いのちの未来と原発を」の水野スウさんです。
小出さんは専門家の立場から反原発を40年説いてこられて、結局福島を防ぐ事は出来なかったと、今、身を粉にして連日の講演をこなして反原発を訴え続けておられます。そして、当然、どうすれば自分の思いが相手に伝わるのかを色々工夫されて今の分りやすい話し方、分りやすい筋道を組み立てた話し方を編み出してこられたのだと思います。
同じように、出前講演で反原発を説いて来られた水野スウさんも、ここ10年は、コミュニケーションを学ぶ必要に迫られ、SST(ソーシャル・スキルズ・トレーニング)という対人関係の練習に惹かれたと書いています。テレビのインタビューで「こわいです。でも、ないと・・・」と答える小さな子を抱えた母親にどうやったら原発がなくてもやっていけるかを説得できるか。
「感」と「理」と「伝え方」。「かつて原発を熱く語っていたころの私は、多分に攻撃的で、良いか悪いか、つい相手に迫ってしまう話し方だった気がする。どうしてわかってくれないの、と違う意見を持つ人たちを、いつの間にか責めてたようにも思い出す。あの頃の私と、今と。伝え方はだいぶ違うみたいだ。敵をつくらない、二項対立に陥らない、聞いている人とキャッチボールをかわしつつ、そのボールが受け取られているかどうか確かめながら、私を主語にして語っている自分がいる。」
 こうやって、長年、反原発を貫いた方たちの努力のお陰で、今、私たちは何故原発はいけないのかを、福島で被災された方たちのご苦労や原発事故現場で働いている方たちの身の上に思いを馳せながら、本やネットの情報を通して知り、抵抗なく理解できたりします。願わくば、こういう思いがもっと大勢の方たちに伝わって、その大勢の思いが政治の世界にも伝わって、国の方針が変ることです。それまで、見届けないといけませんね。