5人会と「ウイーンと京都のデモ」(小出裕章氏)

先週の土曜日に電話がありました。山口のWさんから「伊丹なの」という電話でした。一瞬、「飛行場?」と言ってしまいましたが、「うぅん」で、やっと気づきました。「娘さんとこ?」「そう」。山口の山の中に一人住まいのお母さんを気遣って「出てこない?」と上の娘さんから声がかかったので、金曜日からとのこと。
14日まで、伊丹ということです。我が家も夫が出張で昨日から留守なので、Sさんが来ることになっている13日の火曜日、我が家でということに。それで、ゆかりの人たちに声をかけました。私を入れて5人で集まることになりました。子ども会世話役つながりのグループと、ヨガつながりのグループを一緒にすることになりました。
最初は、お昼はスパゲッティをゆでて、市販のソースで簡単に済まそうと思っていました。
朝、Uさんから電話。メールを昨日から送っているのに返事がないからと電話でした。Uさんの近くのパン屋さんでサンドイッチを買っていくから、もう、年なんだから世話のかかることはしない方が、と言われました。同い年のUさんに言われれば、大人しく甘えるしかありません。それじゃ、お願いということに。
1番乗りの最年少のSさんは、自家製のポテトサラダを手作りの布袋に入れて持参。
私はオニオンスープを準備することに。
Uさんはご主人に車で送ってもらって、大きな包みにサンドイッチ5人分と美味しいアップルパイを買って来てくださいました。
そのうち、Wさんからも「お弁当買って行こうか」とメール。携帯で、必要ないと返事して間もなく昨年の秋以来のWさん登場。
最後に、Sさんと昨年顔合わせを済ませたYさんが。お二人は別棟ですが同じマンションです。これで全員揃いました。
初対面のYさんとUさんをお引き合わせして、さぁ、お喋りスタートです。
原発の話から、生活全般、健康、夫との問題? 一人暮らしの問題? ウォーキングから旅行の話、話題に事欠くことはありません。
お昼ごろ、隣の母が顔を出してくれて、懐かしいみなさんとのご挨拶、その後、カメラのシャッターを押してもらいました。
途中、千葉へ引っ越したFさんに電話をして、全員と会話もできました。
4時過ぎ、お開きにすることに。
今年辰年が二人、一回り下の辰がお一人、申年の同年が二人。3人が夫アリ。2人が未亡人。孫なしが2人。
さまざまな境遇と立場の5人分のお話が交錯して楽しい時間を過ごしました。
無理しないで、少し努力して、健康で楽しく暮らしましょうということでした。
後片付けの皿洗いのひと時が私にとってのおまけの楽しみです。あの話、この意見、あのエピソードと思い出しながら、我が家で集まることが出来た幸せを有難いなぁ〜と思います。



3・11の前日の10日、京都では「バイバイ原発3・10京都」という集会があったことをmwengeさんのブログで知りました。
この集会には小出裕章氏も参加されて講演会をされ、その後デモ行進でも歩かれたようです。
その日のデモの印象を、オーストリアで1986年に見たデモ行進と重ねて、語っておられます。
オーストリアでは、原子力発電所を建設しながら、一度も動かすことなく、国民投票で1978年に放棄したのだそうです。
本日の「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」の書き起こしブログから一部コピーです:

朝日新聞デジタル:「バイバイ原発」に6000人-マイタウン京都

▼小出氏が原発事故の真実語る 講演会に800人 - 京都民報Web



水野「”バイバイ原発”という集会で…6千人の人が集まっていましたという報告を下さって…いるんですが。昨日、も一昨日も日本だけでなく全世界で原発に反対する行動がいろいろ行なわれ。え…全世界だと何十万人にもなるんでしょう。またドイツでは、原発人間の鎖で包囲すると、いうような盛り上がりもあったと、聞いていますが。小出さん、こういう脱原発のイベントの盛り上がりについて、どうお感じですか、いかがでしょう」


小出「……難しいご質問ですね。」「これまでも、原子力…をすすめるというのはまあ一貫した大きな力があったわけですが。その大きな力に対してやめてほしいという運動側という力というのは、一貫してちいちゃかった。でも、時には、大きな声になった時も、あったのですね。例えばチェルノブイリ原子力発電所の事故の時には、え…世界中で原子力に反対の運動がありましたし。日本でもまあそれなりにあった、のですが。それが、いつの間にかやはり、なくなってしまうというか。抑えこまれてしまうという」



水野「一過性のものでしぼんでいくということですね」
小出「はい。で…今回の……盛り上がりというのが一体どこまで、続いてくれるのか。私は、正直に言えば、不安…です。
ただし、今の動きというのは、誰かが笛を吹いてその笛についていくというのではなくて、ひとりひとりの人たちが、自分で…一銭のお金ももらうわけではない。自分のどうしても抑えきれない思いで出てきてるという人たちが、多くなってきてるように私には見えますので。え…希望を感じます」



水野「あの、オーストリアで、こうした人々の動きが、原発政策を大きく変えたということがあって、そのあたり小出さんご覧になったということなんですけども。」「教えていただけませんか」
小出「はい。え…オーストリアという国も、日本と同じように、一時期原子力に夢を託したことがありました。」
「で…原子力発電所を作ったのですが。完成してしまった原子力発電所を、国民投票を行って、1978年に放棄しました。
ですから、完成してた、けれども、一度も動かないまま、オーストリアという国が、原子力から撤退したのです



水野「完成するにはものすごいお金を」、小出「そうです」、水野「かけましたよねえ」、小出「そうです」、水野「しかし一度も、使わず」、小出「はい」、水野「撤退したんですか」
小出「そうです。ウイーンの郊外にツベンテンドルフという原子力発電所を作ったんですが、ついに、一度も動かさずに撤退しました。どうしてそういう、ことができたのかと私は…ずうっとまあある意味不思議に思って、いましたが」



小出「86年のチェルノブイリ原子力発電所の事故のあとに、ウイーン(オーストリアの首都)で、アンチアトムインターナショナルという国際会議が開かれて、私もそれに参加しました。その時にウイーン市内のデモ行進があったの…です。で…私はその頃は、まあ日本でずうっと生きていたわけで。まあ日本のデモ行進といえば、どこかの組織が動員して、みんな同じゼッケンをつけて、まあ同じ旗を持って、それでまあ腕を組んだりしながらですね、同じシュプレヒコールを、あげながら歩く、というそういうデモ行進しか私の頭にはなかった…のですが、私がウイーンで遭遇したデモは、全然違うデモだったのです
え…誰かがその、号令をかけるわけでもなくて、人々が自発的に、デモの出発点に集まってくる、あるいはデモをしている間にそのデモに自然にどんどん合流してくる。え…みんな違う、プラカードというかゼッケンというか、ある人は看板を両手…日本のちんどん屋さんのようにかけてるおじさんもいましたし、え…乳母車を引きながら夫婦で歩いて来るという、そういう人達もいましたし。
ああ、一人ひとり…がこうやって参加するんだなあと、私はその時に思いましたし。こういう人たちがいれば、原子力は簡単にやめさせることができるんだとその時に思った…のです。え……3月10日の京都でのデモも、あ、そうか、日本もここまで来たんだなあと。私は…思いながら、一緒に歩きました。」
水野「はい」、「そうですか」、「どうもありがとうございました」、小出「ありがとうございました」、水野「京都大学原子炉実験所助教小出裕章さんに伺いました

11日、私が参加したデモは、旗を立てた組合らしき一団、二団、数団の人たちと、小出さんがウイーンで遭遇されたようなてんでんばらばらの個人が参加するデモとが入り混じった行進でした。両方があって良かったのではないかと思っていました。公園で集まった原子炉の「卒業式」、あれは旗を立てている人たちは見られなかったようなので、市民グループや個人の参加者ばかりだったかもしれません。少しずつ日本の脱原発・反原発の運動もウイーン型に変化しているのかもしれません。
大きな市民運動になるはずのテーマやけどな〜と息子も言っていました。そういう本人は音楽を聞きに行っていたらしいですが、知人が参加していたとか。気になったらしくツイッターで集会の様子はチェックしていたようで、帰ったら、大勢やったらしいな〜何コースか分れてあったらしいな〜と。ニュースに出ないのがオカシイナ〜とも。
大きな運動になって日本も放射能の心配をしないで暮らせるようになれればいいですが・・・