土肥信雄元校長を吟ずる

前回「あぁ フクシマ」(12月2日の蛙ブログ)というタイトルでご紹介した漢詩の作者・南埜知代さんの2作目をご紹介します。
内容は元高等学校の校長先生を詠んだものです。「大意」も南埜さんご自身の解説です。


[語意]
名実=名前と実際の行動。   留心=心にとめる。心に刻む。   毌行(かんこう)=引き続いてやり通す。   
能幹(のうかん)=物事を処置する才能があること。


[大意]
 東京都立三鷹高校の元校長土肥信雄氏は朝校門に立ち挨拶、全校生の殆どの名前を憶えている。スポーツで生徒とともに汗をする。定年退職時には「教育委員会の弾圧に屈せずがんばりました」の卒業証書を生徒からもらった。九割以上の親はこの学校で教育を受けてよかったと感謝し、校長を支持している。
 彼は退職後非常勤講師としてまた学校の教壇に立ちたいと希望したが、教育委員会は確たる理由を言わず不合格とした。(合格者は97パーセントである。)現職時に「職員会議では職員の挙手採決を禁ず」という委員会の方針に「それはおかしい」と異議を唱えたりしたのが原因と考えられる。
 裁判に訴えたがこれもわずかな時間で棄却された。言論統制をし基本的人権を侵し、物言わぬ教師を生み出すこの方針を決して許してはならない。
◎今回も山の会で一緒の夫から南埜さんに掲載の承諾を得てもらいました。その時のメールに添えてあった言葉を:
「文字通りの拙作ですが 1市民のつぶやきを 少しでも多くの人に知ってもらえばうれしいです。

元教師仲間では(もちろん現役も) 東京都教委のやり方や 橋下さんの教育に対する考え方を 「あれはよくない。あぶない」と殆んどの人は言っています。でも それが一般の人には 「なぜ?」とわかりにくい部分があるようですね。それの一助にでもなれば…と思っています。」

関西にいるせいか、余り大きく取り上げられないし、この事件そのものを私もあんまり知らないのですが、天木直人さんが2月3日のブログ「メディアが騒がない土肥信雄元三鷹高校校長の敗訴」で取り上げておられました。全文をぜひコチラで:http://www.amakiblog.com/archives/2012/02/03/

天木氏のブログによりますと:

 土肥氏の訴訟の発端は国歌、国旗への敬礼を強制する東京都教育委員会に対する抗議だ。
 教育委員会に反旗を翻したことで解雇され、以来、定年後の再雇用も認められないという仕打ちを受けた

 こう書けば国歌、国旗を認めない左翼イデオロギストのように聞こえるが土肥氏の行動は決して左翼のそれではない。
 国歌、国旗に敬意を表する事は認めるが、それを教師に強制する事は間違っている、憲法違反だ、というものである。

 教育委員会という権力組織が職員の自由な議論を奪うことは許されないと主張し、それで冷や飯を食わせられるのは不正義だ、と言っているに過ぎない。
 これは政治イデオロギー闘争とは何の関係もない不正義を正すという話だ。誰が見ても正しい行動だ。



 土肥氏の経歴を見るとさらに興味深い。

 東大を出て大手商社に勤務した。私の言ういわば勝ち組だ。その彼が商社の不正を知って商社を止め教師となる。
 そして教師になって公立高校の校長にまでなる。体制側に身を置きながら、体制側の悪を見過ごすことが出来ないのだ。
 その彼が教育委員会という権力に筋を通して反旗を翻す。権力側にとってはもっとも許し難い反逆者に違いない。
   <略>
 だからこそこの訴訟はニュースにならない。この判決に対する評価も分かれる。
 「管理機関である都教育委員会が校長に命令するのは当然であり、 地方公務員である校長は従うべきだ」などと言う意見も出てくる。



 しかし私は土肥氏の行動を高く評価する。権力の不正義に対するたった一人の反乱だ。

 頼みは土肥校長を慕う生徒であり、巨悪に挑む心意気に感動する 市民たちだ。

国旗・国歌の問題、いつも難しいな〜と思います。
教師が、あるいは式に参加する父兄や来賓?が起立しない、歌わないのは許せないと思う方にはもう少し寛容になれないかと思います。
教育上子どもたちに宜しくない、というのも、私はそんな風には思わない。かえって、そういう人たちだっているんだ、そういう行為も許されるんだということを教える機会になれば子供たちにはかえって良いように思います。反対のための反対なのか、信念に基づくものなのか、日ごろ身近にその先生と接している子どもや親には判ることですし、そんなに大騒ぎしなくても・・・と考えてしまいます。
それより強制されて起立したり、嫌々歌っている人たちがいることがわかっていて、心にもないそんな上辺だけの胡麻化しを強制して、全員が無批判に一糸乱れずという北朝鮮みたいなあり方にしたいと思う方が不気味だと思ったりしています。
”日本人なら当然”という考え方そのものが一つの考え方で、それを押し付けることは一寸恥ずかしいことではないか・・・といつも思います。自分と同じ考え方ではない人もいる、と考えることの方が日本の為になると思っています。
天皇陛下園遊会で「強制はしないで」と諌められたこと(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20090924/1253768102)や、内田樹氏のブログを読んで「私たち世代なら誰しも記憶している旗日の日の丸、それがいつの間にか掲げなくなるのが当り前になり、掲げる事は政治的になにかを主張しているようにとられるのではないかという警戒心を自然に持つようにもなってしまっている今。その実感にこそ戦後の日本の戸惑いの歴史があり、それは日本だけにあるものではなく、国民国家の名で為された戦争という愚行や蛮行を体験した国民に共通する思いであるというのが内田先生の考えです。その実感こそが大切で、日本人として共有できる出発点なのだと気づかされました」という感想をもった「愛国心について」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100713/1278972627)で考えたことが今も私の基本となっています。

土肥元校長を支援するサイトhttp://blog.goo.ne.jp/ganbaredohi