「3・12の思想」を読んで

原発関連の本を読んでいつも感じることですが、ただただ大変なものに手を付けてしまったということと、福島原発事故が無ければそのことに気付かなかったことの罪深さ…気が滅入ってしまうような気分で本を閉じなければならない辛さです。
著者の矢部(やぶ)史郎氏は、1971年生まれ。「90年代からさまざまな名義で文章を発表し、社会運動の新たな思潮を形成した一人。人文・社会科学の分野でも異彩を放つ思想家。著書に『原子力都市』(以文社)、『愛と暴力の現代思想』(青土社、山の手緑との共著)、編著に『VOL lexicon』(以文社)がある」
「あとがき」によりますと、「このロングインタビューは、2011年の暮れと12年の初め、2日間にわたって行われました。インタビューアーになってくださった杉村昌昭氏は、フェリックス・ガタリアントニオ・ネグリの翻訳・紹介で知られる人です。インタビューの収録は大阪府池田市にある杉村氏の事務所で行われました」
ということですので、つい3,4か月前に隣町で行われたもので、話し言葉で書かれていますので語り口は優しいのですが、内容は徐々に難しくなっていきます。でも、解らないところは、いいや〜で読んでしまう私流で読んでしまいました。

内容を紹介してみますと:
I   はじまりとしての3・12 
II   放射射能測定という運動
III  3・12の思想


Iの<「3・12」公害事件>からです:

放射性物質が拡散してしまった状況の中で、問題は原発の安全性ではないのです。問題の中心は、拡散した放射性物質をどうやって回収するかです」


「問題の中心は、関東平野が汚染されてしまったということです」
「今後、放射線による健康被害が表面化する時期が来るでしょうが、その時に最大の被曝者人口を抱えるのは、千葉・茨城・東京・埼玉・神奈川の首都圏です」
「これは歴史上かつてない規模の人体実験です。人間は放射能と共存できるのか。どれぐらいの濃度なら共存できるのか。放射性セシウムが降り注ぐ環境では、どんな人が病に倒れて、どんな人が元気に生きられるのか。そういう実験です」
「首都圏の巨大な人口が『3・12』を否認して問題を直視しないのならば、その否認が続くあいだ、爆心地の福島県民は地獄をさまようことになる。土壌検査、避難措置、医療体制、賠償問題、すべてが遅れていきます。関東が平静を装うために、東北と北関東が巻き添えにされていきます。そして『絆』だとか『国民』だとかいう号令をかけて、できもしない『再生』を約束して、被曝被害を拡大させてしまうわけです。


「『3・12』はいまも現在進行形で拡大している公害事件です。いま福島第一原発が奇跡的に収束したとしても、拡散した放射性物質は地面に残り続ける。たとえ日本の原発をすべて停止させても、国のエネルギー政策が転換しても、放射能の拡散は終わらない。東北・関東の住民は毎日少しづつ被曝し続ける。
 『3・11』は過去に属しているけれども、『3・12』はまだなにも終わっていない、始まったばかりです。被害の拡大が現在進行形であることを強く意識するべきです」


「『3・12』を考えるということは、なにも難しいことではありません。これはとてもありふれた公害事件にすぎない。歴史をさかのぼれば、いくつも前例があります。足尾銅山事件で谷中村がどうなったか、チッソ水俣病事件で漁民たちがどうなったか、イタイイタイ病事件で神通川流域の農民がどうなったか、教科書にも載っているような事件です。
 放射能公害事件でいえば、チェリノブイリ事件がどれだけの被害を生み出したかの詳細な報告もある。私たちはこうした歴史に学び参照しながら、『3・12』にはじまる現在の状況を『東京電力放射能公害事件』と呼べばよい。そうして腹を据えれば、やるべきこと考えるべきことは明確に見えてくるはずです」


他にも「子どもと労働者への『無関心』」や「国内難民と母親たち」、「『外国人』としての避難民」でも引用したい箇所があります。
測定運動については、訪問しているブログでも実践されていますので、大変関心を持って読みました。
最後の章では時代区分が提示されます。大型帆船が活躍する「大航海時代」を推進したのは、植民地主義国家。「鉄の時代」の主役は帝国主義国家。では原子力の時代を主導する支配的な国家体制とは何なのか…と考えを進め、やはり「帝国」ではないかと:

ネグリ・ハートが問題提起したような=蛙)<帝国>で指摘される超国家的な統治というものが、これから現実的な課題として具体的にあらわれてきます。「3・12」事件は、一国家的なレベルでの公害事件にとどまるまのではありません。国際闘争になります。被曝による健康被害をできるかぎり過小評価して「被害は軽微だった」ということにしたいのは、これから日本政府の意志であるだけでなく、国際原子力産業の意志であり、超国家的な国際機関の意志なのです。

 われわれはこれから、IAEA(国際原子力機関)や、ICRP(国際放射線防護委員会)やWHO(世界健康機関)と、直接的にか間接的にか対決しなければならないわけです。私たちはすでにIMF(国際通貨基金)がどんなひどいことをやってきたかを知っているわけですが、これから私たちはWHOがどれほど非人道的なものかを知ることになる。・・・・
 WHOがちょっと数字を操作すれば、数万人の被曝者が病院での検査を拒否されることになる。これは旧来的な「国家権力」とか「国家意志」というのではない、もっと別の次元の統治であり、管理です。


<原子力のある社会>という項で小出裕章氏の「老人が責任をとって食べる」という提起について3つの問題で批判されています。
ここは、子育て世代の著者と、40年間反原発を貫いて幾たびの絶望をかいくぐってきた60代の原子力学者との世代間の感覚の違いがあるように思います。小出氏の提起が誤解を招きかねないということは勿論あるのですが、矢部氏の方で「誤解」している点も確かにあるように思います。私たち世代はせいぜい生きてもあと30年。汚染されていない地域の貴重な食品を若い方たちに譲って「基準値」以下の汚染食品なら食べてもいいと実際思っています。「基準値」の決め方も怪しいと思っていますが。それほど汚染の広がりは広域で深刻。私達まで若者基準でいけば日本に食べられるものはないだろうというほど汚染されているという実感があります。
しかし、矢部史郎氏の小出裕章氏批判を私の解釈で当てはめると、そういう世代の死後、遺体を焼いたら汚染が広がる、その汚染の影響を受けるのは私たち世代ではなくて若い世代。だから「年寄りは食べてもいい」という言い方は、「自己犠牲的主張」だ。「自己犠牲の精神はファシスト的心性を増長させて、若者や女性が命を削ることになる」。戦時中の「国防婦人会」や「ひめゆり部隊」と同じで、国策の片棒を担いだり、国策に過剰適応してしまうというのです。いま必要なのは「自己犠牲の精神ではなくて、徹底した自己愛」ですと、一面当っているようですが、小出批判には誤解もあると思います。一度、小出氏と直に話し合われれば、小出氏の大きな捉え方はむしろ著者の矢部氏と一致するのではないかと思うくらいです。
エコロジーとはなにか>の項では、またフェリックス・ガタリの「三つのエコロジー」が出てきます。「環境のエコロジー」、「社会的諸関係のエコロジー」そして「人間的主観性のエコロジー」。この辺が難しくなってくるところです。
最初の章だけでも、充分に読む値打ちのある本でした。
終わりでなく、はじまり・・・60代後半の私でさえ、あ〜ぁとメゲテしまいそうですが、若い方たちは否応なく一生二生と続く汚染時代です。これを機会に何かをつかみ直さなければやっていけないでしょう。そして、これをチャンスに自分から始めて、周りが、社会が変わり始めればと願わずにはおれません。

◎関連蛙ブログ:4月15日の「原子力都市」、4月17日の「『3・12の思想』を読む前に」