旧岩崎邸庭園を訪ねて

サロメ」が終わったのは6時頃、そのまま文化会館のレストランで食事をして、ゆっくりできると思ったら8時前には外に出されることに。ホテルへ帰る道、陸橋の上からだとスカイツリーがよく見えるかもと上って見ることに。見えることは見えましたが、明日の昼間を楽しみにとホテルへ向かうことに。腹ごなしに公園の中へ入って不忍池のライトアップしたお堂の方へ歩いて行きました。ハスの葉がびっしりと池を覆っている様子。お花の見ごろにはさぞ綺麗だったろうと思いました。(←チラシからビアズリーの描いたサロメ

ホテルに戻って明日は早目にと言ってそれぞれの部屋へ。落ち着いたところでテレビをつけるとサッカー日本代表のブラジル戦。圧倒的な力の差に後半は見ないで寝ることに。
17日(水)、天気予報は午前中はお天気。午後3時ごろから崩れるという予報。午前中に岩崎邸庭園を見てお昼頃には東京駅へという予定で7時半一階の食堂で朝食を摂ることに。
Eさんとは1時間ほどいろんな話をしました。お孫さんの話とか、原発の話とか、政治の話とか、知り合って20年ほど、お互い初めての海外旅行を共にして、電話で音楽の話をしたり、我が家で泊まって頂いたことも、また、横須賀のマンションで泊めて頂いたこともありました。同じような音楽(家)が好きになったというだけで不思議なご縁です。さて、9時頃、また荷物をフロントに預けて外へ。朝の不忍池を少し歩いて、旧岩崎邸を探しながら行くことに。
看板が出ていてすぐわかりました。道路から赤いレンガの塀が一部見えましたが、やはり、それが邸宅の塀だったようです。大木が聳えるお庭の見えるアプローチの坂をゆっくり歩いていくと、山野草が植わっています。かわいいホトトギスが花をつけていました。
受付の建物が見えるとその上に覆いかぶさるイチョウの大木が見えました。巨木です。左を見るとヒョロヒョロとした数本のヤシの木越しに木造の洋館の全体が見えました。東京に行ったら旧岩崎邸を見たいと思い立ってから20数年、やっと願いが叶いました。300円で買ったパンフレットを読んでみると、設計したジョサイア・コンドル三菱一号館も建てており、同じく赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾はコンドルの教え子です。

ジョサイア・コンドルは1852年、英国ロンドン生まれ。明治10年(1877年)、日本政府の招聘により来日。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の初代教授に就任し、日本で初めて本格的な西欧式建築教育を行った。門下生には、東京駅の設計で知られる辰野金吾赤坂離宮を設計した片山東熊など、近代日本を代表する建築家がいる。鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂など多くの欧風建築も設計し、後に日本最初の建築設計事務所を開設する。東京帝国大学名誉教授、(日本)建築学会名誉会長・名誉会員でもあった。大正9(1920)年、日本で永眠する。(1923年には、東京大学構内に銅像が建てられた)

正面玄関から建物の中に入る前に、余りにお天気がいいので、お庭を先に見ることに。すぐガラス窓で囲われたサンルームが見える、左手には白い建物の本館とは対照的な黒っぽい平屋の建物があり、壁面は校倉造りのようで西部劇でよく見かけるような庇(ひさし)が深い。「撞球(どうきゅう)室」と書いてありビリヤードのための建物です。階段2,3段分を上がると庇の下に木造りのベンチが置いてあるので座ってみる。右端にダリアが花をつけているところにガラスが貼りつけてある四角い箱のようなものがありました。「地下室があれば明り取りだけど」と言うと、Eさんが「地下に降りる階段がある!」と向かい側に階段を見つけましたが、ロープが張ってあります。後でパンフレットで見たら、本館とは立派な白いレンガ造りの地下道(非公開)で結ばれています。

広い芝生に向かって少し歩いていくとサンルームとは別の面に列柱が並んだベランダ(1階はトスカナ式、2階はイオニア式)の見事な洋館南面が見えました。芝生の奥には巨大な石灯籠や巨木が見え、振り返ると洋館の隣にはモッコクの大木の陰に平屋の和館が見えます。この広大な芝生は元は回遊式の池があったところだそうです。お屋敷は元越後高田藩江戸屋敷だったもので、三菱の創業者の岩崎弥太郎が得て、その長男久彌(ひさや)の頃、本邸となりました。洋館は明治29(1896)年に完成しました。

玄関のところでビニール袋を貰って靴を入れ持ち歩くことに。どの部屋も天井が高く豪華な壁紙や婦人のお部屋の天井は刺繍の入った布張りだったり、どれも大理石の暖炉の設備のある洋室です。都市ガスによるボイラーが設置され全館スチーム暖房の設備もあり、そのスチーム管にも模様が入っています。暖炉は部屋ごとにデザインが異なっていて、脇に綺麗なタイルが張ってある暖炉が2室ありました。バカラのガラス食器を飾ったケースが置いてあったりと当時の西洋の最高級の生活スタイルが伺えます。壁紙は日本の職人による金唐革紙という特別な技巧で復元されたものが張り巡らされています。ベランダのタイルはミントンのものだとか。

外から見たガラス窓で囲まれたサンルームは明るく広くて立派なものでした。右手のコーナーに岩崎家の家族写真が立てかけてあり、弥太郎の妻であり久弥の母に当る方も写っていて、久弥の奥さんと着物姿の3人の娘たち・・・美喜という娘さんのところに「エリザベス・サンダース・ホーム」という名前を見つけて二人して「そうかぁ〜〜!!」、そういえば岩崎弥太郎の孫だったのね〜澤田美喜さん! 思わぬところで繋がりました。
岩崎弥太郎さんの顔写真を見て、これまたEさん曰く「香川照之さんが演っていたあの汚い・・・」で「そうそう、大河ドラマで」と。もうあれは一昨年のこと!?福山雅治坂本竜馬を演じた「龍馬伝」。そのドラマのナレーターを異常に龍馬にライバル心を燃やす岩崎弥太郎が務めていました。高知に居る時代の弥太郎が汚い扮装で、それがいつまでも続くので、たまりかねた三菱が余りに汚いとクレームをつけたとか?なんて噂がありましたっけ? 
幕末から明治創世記のあの時代、封建的な身分制度を打ち破って新しい時代の頂点に立った一族が住んだ広大なお屋敷の今は三分の一ほどの敷地と建物の中を歩いてきました。イギリスから文明開化の日本に移り住んで日本人と結婚し、日本に骨をうずめることになったジョサイア・コンドルラフカディオ・ハーン小泉八雲)もそうでしたが、西洋に教えを乞うために呼び寄せた西洋人が逆に日本の文化や日本人に心惹かれてその虜になるという生き方もあったということです。  (→和洋合体!)
明治期の建築に心惹かれるのは、そういう西洋と日本の文化のせめぎ合いと折り合い方がとても面白いからで、西洋建築を日本人が住みこなし、また日本に根付かせるための工夫の跡が興味深いのだと思います。関西でも、大山崎の山崎山荘や京都の円山公園内の長楽館、近くは池田市にある小林一三邸なども同じような魅力を感じます。
さて、ビニール袋に靴を入れたものを手に持ったまま洋館の廊下を辿って今度は和館の廊下に出ます。そこに白い萩が咲きこぼれる小さな和式の庭があって、ハッと驚きました。ピリッとしてかつ和みも、シンプルな庭の持つ独特の雰囲気に胸を打たれます。船底天井の和式廊下を辿ると、広縁に取り囲まれた20畳の広間と隣接する12畳と18畳のお座敷です。広間には畳三枚が敷いてある床。正面の壁には橋本雅邦の富士山が描かれているというのですが、今はもう、周囲の襖絵ともども微かに輪郭が残る程度に退色してしまっています。
このお屋敷は大正12(1923)年の関東大震災の際は、地元市民に開放され、庭の芝生は5千人ほどの避難民でうずまったそうです。本邸のみならず一時は馬小屋にも人々が住んでいたとか。敗戦後はGHQに接収され、その後政府所有となり、最高裁判所司法研修所が庭の西部に建てられ、和館の大部分が取り壊され現存するのはわずかに広間と2つのお座敷のみとなったそうです。平成6(1994)年に文化庁所管となり、平成13[2001]年東京都の管理となる、とパンフに。
欄間や障子の桟、襖の引手などにも家紋の重ね三菱の意匠が見られます。広間に隣接する二つのお座敷には赤い毛氈が敷かれ、小岩井農場の乳製品やクッキーやお土産を置いている小さな売店があり、お抹茶が戴けるように机が置いてあります。私たちはお庭が正面に見える場所に座って白玉ぜんざいを注文しました。そういえば小岩井農場の「岩」は岩崎家の「岩」だったのですね。澤田美喜さんといい、当時の方たちにはノーブレス・オブリージュ(貴人の責務)が生きていたようです。
ところで、ここ岩崎邸の芝生のお庭が日本の芝庭の原点だそうです。戦後の住宅で芝生があるお庭というのはある程度の広さの敷地と芝生を植え付け手入れする余裕のある生活レベルが必要でしたから、この当時の上流階級それも「超」上流のお屋敷の庭園文化(一寸オーバー?)が戦後広まって・・・ということだったの〜と納得でした。期せずして2日間でコンドル設計の邸宅や銀行の建物、コンドルが育てた辰野金吾の東京駅と3か所の建築を見ることが出来ました。
残るは古河邸です。何時のことになるかわかりませんが、次回の東京はこの古河邸とバラ園を訪ねる旅にしたいと思っています。
ホテルで荷物を受け取って上野駅へ。西郷さんの銅像を初めて見て、青い空に突き立つスカイツリーも見て、お上りさんとしては完璧?です。
白玉ぜんざいのお蔭でお昼は食べずに東京駅でEさんとも別れて、12時台のひかりに乗って新大阪へ。途中雨が降り出して西はお天気がすでに雨模様でした。


(↑写真は芝生から見た左から和館、洋館、そして撞球室<ビリヤードルーム>の建物)