北児童公園の菜の花と「本当の自分」


昨日、永寿園の帰り、車でそのままNさんのお宅へ寄り、お茶仲間のNaさんを呼んで、3人で来月中ごろに予定しているHさんの歌の会参加の打ち合わせをしました。帰り急坂を下ってドライブウェイのヘヤピンカーブを横切って「ロボットのお米屋さん」の北側から北児童公園へ。
そこに菜の花が満開でした。50センチ四方の花壇?に菜の花色満開の菜の花が咲いています。
今年初めて見る菜の花でしたので、思わずカメラを取り出して。
この児童公園には、今は冬枯れですがイチョウの大木があります。
入り口近くでは子どもたちが野球をやっていました。



先日、新聞の広告を見て佐伯啓思の「日本の宿命」(新潮文庫)を手に入れて読むことに。
本当は借りている本があって、そちらを優先すべきなのですが、進まず、コチラを先に。
読み終えたものの、読んでいる途中から目はクラクラ足元はグラグラと気分が悪く?なるほど…ショックというより、視点をどこに、足元をどこに、という気持ち悪さとでもいうか・・・さかのぼるにしてもここまで〜というぐらい時代をさかのぼりますし、何とも言えない感じです。
著者本人の「まえがき」で、本書の中心は「日本の『近代化』が大きな矛盾をはらんでおり、この矛盾を我々はいまだに引きずっているということです。それは『日本の宿命』とでもいうべきことがらです。にもかかわらず『戦後』という時代に、我々は『近代日本』が抱える大きな矛盾からずっと目をそらせていました。残念ながらそのことを我々は充分に認識していないのです。それがまた今回の政治の著しい不安定に表れており、今日の日本の混迷を論じる最も基本的な軸はそこに置かれるべきだと思うのです。」
独立とは、サンフランシスコ条約とは、開国とは、攘夷とは・・・と明治維新の時代にまでさかのぼって考えることになります。
戦後民主主義も疑われますし、「大東亜戦争」とは?という問いかけが今また何故なのか? 本の感想はまた改めて別の機会にと思っています。戦争を含めて日本の近代史を知らないな〜と思いますので、NHKETV特集「日本人は何を考えてきたのか」の続きを自分でも始めないといけないということになりそうです。
内田樹先生の今日のブログでも、「中島岳志さんや片山杜秀さんの近代ナショナリズム史の読み直しの仕事に触発されている。」「1960年、70年代生まれの若い研究者たちが玄洋社農本主義や軍制史を研究する動機は、すぐにはわからない。 でも、この領域の研究に緊急性があるということは、私にも直感されている。 現に書棚を振り返ると、ここ数年のうちに北一輝頭山満大川周明権藤成卿宮崎滔天といった人たちについての研究書がにわかに増殖している。」(引用元:http://blog.tatsuru.com/2013/02/27_1227.php
ところで、従弟の娘さんが10年(以上?)ほど前、カナダだったか、アメリカに数か月だったか1年だったか出かけたことがあって、その理由が「自分探し」と聞いて、呆れるというか、驚いたことがありました。当時は、流行だったみたいで、そういう時代だったのかもしれません。今日の日経夕刊にその「自分とは?」について、「そんなこと考えなくていいんだよ」というのを見つけました。「読書日記」というコラムで取り上げられた本は「タオ」です。

『タオ』  「本当の自分」など気にしない   元プロ陸上選手 為末 大


 道教の「胡蝶の夢」は有名だ。蝶になった夢を見た。でも本当に自分は夢の中で蝶になったのか、今の自分は蝶が見ている夢なのではないか、と迷う説話である。
 「自分」の輪郭がはっきりしないという感覚は僕も幼い頃から持っていた。ある日、母が昔の同級生と会うのについて行った。幼なじみと話す母は、自分の知っている母とは違う。「お母さんは誰なんだ?」と怖くなった。
 長じて陸上選手となり、テレビに取り上げられると映像の中の自分に違和感を覚えるようになった。僕の実態はこんなに立派じゃないよ。そんなズレを感じるのだ。
 でも道教(タオイズム)を分りやすい詩にした『タオ』(加島祥造著、ちくま文庫)には、「周りの人が/君のことをあれこれ言ったって/気にしなきゃいいんだ」とある。「本当の自分」など気にしなくていいのだろう。細胞は3か月ですべて入れ替わると書いてある本もある。昨日と今日の自分だって違うのかもしれない。
 タオイズムは僕にとっては「許せ、手放せ、気にするな、考えるな、感じろ」ということ。本当にこんな境地に達するのは難しいが、一人で空想するのは好きで、「胡蝶の夢」の蝶のような何かが、自分の周りにいるように感じることもある。

◎下の写真2枚は、サンルームの中から庭の多肉植物の鉢。寒中、分厚い肉で凍結予防しているのか外でも元気?です。