日陰宿りと「吉田元所長の無念」

今日はヨガの日、7年もお休みされていたNさんが体験見学に来られました。その間に新しい方も増えていますし、お休みしたり辞めて行かれた方たちも。一番変わったのは先生とのお食事を一緒にする人たちが増えたことです。それだけ、一人暮らしや定年で夫が家に居るのでこの日は大っぴらに外食と決めている…という人が増えた=高年齢化したということです。80代で、もう一度というNさんの元気に先生も生徒も励まされていました。
ところで、今日は夫が仕事で家にいるので、Nさんには「皆さんと一緒にお食事に行きはったら〜」とおすすめして私は帰ることに。桜並木の角を曲がって直線コースに入った所で、家の前に母がいるのが見えます。私が見えるはずだけど…私を出迎えてくれているふうでもないし・・・どうしたの?と聞くと、父が帰ってこないと心配しています。10時半に家を出て、郵便局へ行って、帰りに文芸春秋の発売日なので本屋さんに寄ってくると言ってでかけた、ケイタイで呼び出しても出ないので、2階に行ってみたら置いてあったと。もうとっくに帰ってこないとオカシイのにと心配げ。
コーヒータイムの時ですら首から紐がけしたケイタイは肌身離さず持っているのに、こんな時に限ってどうして?・・・、「自転車で見に行ってくる」とガタガタやっていると、話を聞いた夫が車を出すというので…「コンビニの本屋さん」と言って、任せることに。
ところが、母は、今日は郵便局の帰りだから信号の所の本屋さんだと言うので、え〜〜っと、今度こそ私が自転車を走らせてコンビニに先回りと走りだしました。住宅街を抜けて芦原池に注ぐ小川の橋を渡って新しくできたコンビニへと道路を北に曲がったところで、杖をついて軒下で中天にある太陽の日差しを避けて雨宿りするみたいにじっとしている父を見つけました。
「お父さん、ケイタイ、持って行かなかったでしょ」と私。胸ポケットを見て「ホントや」と父。「ここにジッとしていて、車で迎えに来てくれるから」と、財布を預かってコンビニへ。車が一台コンビニから出て大通りへ向かって行きましたが、手を振っても解るわけないか。私はヨガのバッグを玄関に置いて、ケイタイもお金も持たずに自転車に飛び乗ったので、こういう時はケイタイが必要と反省。文春を買って父に渡して、一先ず近くのスーパーのサンデイに一緒に行って「ここで涼んでて」と父を置いて、家へ向かいました。
夫はスマホが調子が悪く修理に出していましたが、丁度昨日、代車みたいに代わりのケイタイを持っているという話をしていたので、しばらく時間をかけて電話をしました。連絡がついて無事父を乗せて帰ってきてくれました。夫は郵便局から喫茶店、図書館まで探しに行ったとか。朝のコーヒータイムで、「一番良いのは図書館。あそこで本を読むふりをして涼んでいる人がたくさんいる」という話をしていたので、ひょっとしてと思って立ち寄ったそうです。母は「悪かったね〜、悪かったね〜」と気を使っていますが、私たちはこういう時のために隣にいるんだから・・・と。
猛暑は自然災害だ.という言葉を聞いていたか読んでいたか・・・でした。倒れていれば病院か警察から電話があるはずと心配する夫に出がけに言いましたが、心配性の夫は、身元が分らないケースだってある.と思ったらしいです。
父が軒下の小さな日陰から動かないで雨宿りみたいにしている姿が、ほっとするとともに、ちょっと不思議な光景に見えました。
(トップの写真は珍しいピンクのノウゼンカズラ、オレンジ色の花はクリニック前のトウワタの花)

今朝の新聞では昨日から大きなニュースの一つだった東電 吉田昌郎元所長が死去の記事が載っていました。水曜日の今日は夕方の関西テレビの「アンカー」が事故一か月後直接防護服を着て吉田氏に単身会いに行った青山繫晴氏の担当でしたので、当然吉田氏についてでした。
青山氏が取材に至るまでの経緯を話しました。吉田氏の許可で入ることになり、初対面の青山氏に大きな手で包み込むように握手して「よくこんな奥まで来て下さった。今まで誰もここまで取材に来た人はいない。東電幹部ですら東京から命令するだけだ」と。

携帯のメールのアドレス交換をして郡山の駅に着くや否や電話があった。おそらく圧力がかかったのだろう、所長に迷惑がかかるなら没も覚悟と思って、受け取ったら、そうではなくて、「色々あっても頑張りましょう!」という電話だった。大きな声で周りの人たちに聞こえるように鼓舞する言い方だった。その後、経産省のトップから東電経由で止めるように言われたが、断った。逮捕する話もあったが警察にも話の分かる人がいて、現場に受け入れるかどうかの権限は吉田所長にある。所長がOKした人間を逮捕することはできないと断ったと聞いた。この時の取材のテレビ放映で雑魚寝の様子や、厳しい現場の雰囲気がわかり、環境改善のキッカケになったという。

私が知りたかったことを聞くことが出来ました。昨年の2月に既に死を覚悟したかのような感謝のメールが届いたとメールを一部公開された後のことです。「吉田さんの無念」というフリップのコーナーで取り上げられたことが、新聞の記事でも書かれていたことと関係があります。
それは、新聞記事によりますと「原子力設備管理部長だった08年、東電社内の検討で第1原発に最大15.7メートルの津波が押し寄せるとの試算が出たが、吉田氏らは『実際には来ない』と考え、対策は取らなかった」。しかし、実際には津波は来た。このことから最後まで気にしておられたのは・・・

青山氏によると、「事故調によっては津波よりは地震による配管という説もあるが、否定されている。実際には津波によって破壊されて、今度津波が来れば原子炉は直に波を受けることになるので、今の仮の防潮堤では危険。早く本格的な防潮堤の建設をするべきである」。これは2年前にもそういっておられました。もう一つが、今、毎日のように汚染水漏れで騒がれていますが、その汚染水について、一刻も早く取り組んでほしい。安倍政権が「事故は収束していない」と認めているんだから早く取り組むべきだと。
青山氏は、吉田氏は死んでも”魂魄はこの辺りに”あってと自分の頭の横辺りを指しておられました(アンカーで注目して伝え続けるという意味?)が、私には”吉田氏の魂魄は今もフクイチの現場に”という風に思えました。

私も必ず病気から復帰し、平和ボケしたそしてすべきことがなかなか進まないこの国に何らかの貢献ができないかと考えております。
    吉田 拝        (2012年2月5日青山氏へのメールより)