福島県南相馬市の五月(「積み木」より)

手元に6月号の、これは機関紙というのでしょうか、「積み木」という名前で、近くにある豊能(とよの)障害者労働センターが発行しています。「『障害がある人も地域で当たり前に働きたい!』という一人の少年の叫びから生まれた活動は、地域の人を、そして、その夢を巻き込み、ゆっくりとした歩みを重ねて」今年、豊能障害者労働センターは設立31年を迎えるそうです。ユニークな絵をプリントしたTシャツや素敵な絵のカレンダーを販売したり、リサイクルショップや園芸店や食堂を経営したり、和装小物のお店までと幅広く活動されています。

1995年の阪神淡路大震災の時、兵庫県へボランティアに行った人のお話を聞いて、私も近くで何かできないかと思って、今は山口に引っ越したWさんやUさんたちと一緒に、ここの機関紙の発送のお手伝いや、リサイクル品の仕分けや値付けのお手伝いを数年したことがありました。
一人暮らしのお年寄りや、近くの被昇天学園の学生さんが良く来られていました。学校で単位がもらえるということも聞きました。

車いすの方や脳性まひの方や自閉症の方たちと一緒に作業をするのですが、作業の手を動かしながら、ついつい、あの人はどこが悪いのかしら、この人は、なんで・・・とか、考えてしまいます。そのうち、他の人から見たら、自分も同じように、あの人、どこが悪いのかしら?と思われているかもしれない。私は外見ではわからないけど、胃の3分の2が無いので、内臓障害者だし〜。身体は健常者でも、心は健常でなく病んでいるってこともあるし・・・なんて考えているうちに、可笑しくなってきました。
健常者と障害者の区別そのものが無意味に思えてきたのです。今、足腰丈夫でも、いつ怪我をして障害者になるかわかりませんし、加齢とともに不自由になっていくのは目に見えています。一人で淋しく家にこもっているより、1日、ここに居て、お喋りして、ありがとうと言われて帰るのは、とても良い過ごし方だと思いました。それから、しばらくして、センターの方たちも移動があったり、Wさんが引っ越したりして、足が遠のくことになってしまいましたが、カレンダーの購入は続けていますので、こうやって毎月の「積み木」は読んでいますし、リサイクル品を持ち込んだり、偶にリサイクルショップに顔を出したりしています。

さて、その「積み木」6月号に「咲き誇る八重の桜の前で考えたこと」という記事があります。3頁にわたる長い記事ですが、見出しがついています。(1)ゆずりは (2)いのちの森としての私たちの街 (3)5月の連休 福島県南相馬市行き (4)むすびーとなっています。原発事故関連の(3)を移してみます:

咲き誇る八重の桜の前で考えたこと −−−− 新居 良


(3)5月の連休 福島県南相馬市行き


5月の連休に、福島県南相馬市に障害者支援の施設であるNPO法人さぽーとセンターぴあ代表理事の青田由幸さんを訪ねました。大阪から仙台経由で、常磐線代行バスを乗り継いで、南相馬市原ノ町駅に着きました。
 南相馬市は、おおむね、30キロ圏外の鹿島区、30キロから20キロ圏(震災当時は屋内退避、自主避難)の原町区、20キロ圏内(震災当時は、強制避難)の小高区に分れます。原ノ町駅で青田さんの車に拾って頂き、視察に出かけました。避難区域20キロ圏内の小高区は、未だ住むことはできません。人気のない整然とした商店街に有線放送だけが流れていました。放射線量は、毎時0.14マイクロシーベルトでした。日本における平均の空間自然放射線量は、毎時0.07マイクロシーベルトなので、その2倍です。並江町へと入る10キロ圏内の入口に警察官が検問(毎時2.8マイクロシーベルト)。さらに中に進むと、道路も地震で傷んだまま。車の中でも線量計の数字は、ぐんぐん上がります。車窓には、美しい里山の風景が広がります。地震で古い蔵などが崩れたままになっていますが、家々の瓦屋根は、最小限の修繕がされていました。地域の小学校が緑のなかにひっそりと固まっています。山々や美しい深い緑ほど線量が高い。「これは本当にいのちに反する事だ」という強い実感をいだきました。陶芸の杜おおぼりの咲き誇る八重桜の前は、毎時8マイクロシーベルトで自然千両の100倍以上でした。海岸線に移動し、請戸には、いまだ痛々しい船があちこちに打ち上げられたままです。南には、福島第一原発の煙突が小さく見えました。

 <略>


(4)むすび


 今回の訪問で改めて感じたのは、放射能は、いのちの世界の外にあるということです。原発推進の背景には、エネルギー供給の際限ない拡大を求める願望があると思いますが、私たちのいのちは、自然の中で、「限りのあるもの」を受け入れることで成り立っています。
 放射線には、これより少なければ安全という値(しきい値)はありません。そして、原発事故は、一旦起こるとこの放射能を撒き散らし、取り返しがつきません。現在、福島県内では、市街地でも、福島市、毎時0.36マイクロシーベルト、郡山市、毎時0.24マイクロシーベルト(5月5日現在)と、自然線量の2倍から5倍という非常に厳しい状況です。この低線量被ばくの影響を科学的に実証するのは、容易でない現状がありますが、私たちは、20年、30年後の課題に対して、「何一つ持っていかない、みんなおまえたちに譲っていく」では許されません。同時代を生きるものとして、様々な支援を重ねていく必要があります。一方で、将来、放射能が「障害」を引き起こすことは、あるかもしれません。けれどもそのとき、私たちは「障害」をいのちの内側の問題としてとらえる必要があります。「障害」を排除し、「障害者」を排除するならば、社会の生きがたさを累乗することになります。福島第一原発が爆発事故を起こした時、南相馬市は、自主避難となったため、要援護者が取り残された深刻な状況になりました。震災関連死の406人は、避難に伴うものでした。障害者も、高齢者も、子どもも、誰もが排除されない、いのちが息づくあり方は、私たち自身の防災の課題でもあるのです。
 私たちは、いのちがつながり伸びていく力を妨げるものには、はっきり「いいえ」と言い、各地での、生きがたさを支援する活動にシッカリとつながっていきたいと思います。すべての子どもが、もう一度ゆずりはの木の下に立って、思い思いの夢を描けるように

この「むすび」のなかのピンク色の字の言葉は、最初の(1)の出だしの詩と関係がありますので、前半の「ゆずりは」の中から”ゆずりは”に関する個所のみ引用してみます:

(1)ゆずりは


私の家に一冊の本があります。「ゆずりはの詩」田中陽子さん著。田中さんは、青森県十和田湖畔で「暮らしのクラフトゆずりは」というお店を糸なんでおられます。東北の手仕事の創り手を訪ね、会い、見て、話を聞き、その気配を感じとりながら、地域に根差した作り手の品を集めてこられました。「ゆずりはの詩」の冒頭に田中さんは、河井酔茗の「ゆずりは」(花鎮抄)を掲載され、ご自身の伝えていく仕事への思いを託されています。


「こどもたちよ、/これはゆずりはの木です。/このゆずりはは /新しい葉ができると /入れ代って古い葉が落ちてしまうのです。 /こんなに厚い葉 /こんなに大きな葉でも /新しい葉ができると無造作に落ちる、新しい葉にいのちを譲って。


(中略)
 世のおとうさんおかあさんたちは /何一つ持っていかない。 /みんなおまえたちに譲っていくために、 /いのちあるものよいもの美しいものを /一生懸命に造っています。


(中略)
 そしたらこどもたちよ、 /もう一度ゆずりはの木の下に立って /ゆずりはを見る時がくるでしょう。」


<中略>


 私は、あらためて、ゆずりはの詩は、こどもたちへの夢を語ったことばであると同時に、実は「おとうさんおかあさん」即ち、今の私たち自身を問い直す厳しいことばであると思います。大きな自然と深く関わる中で、限りあるいのちの尊さを知り、紡いで来られた作り手のように、自分たちが造るものの価値を問い、何を伝えていこうとするのかの覚悟が問われていると思うのです。