この人に聞きたい「武藤類子さん」と兵庫県でも原告団結成

◎まず、福島第一原発での高濃度汚染水が海へ漏れていたという昨日27日(土)のニュース。写真の切り抜きは日経夕刊。11年4月の海洋流出汚染水のセシウム134&137は、ともに1リットルあたり18億ベクレル。今回ははるかに上回る濃度です。
さて、前回の26日の佐々木るりさんに次いで、今日は、武藤類子さんです。
武藤さんと言えば、『福島第一原発事故から半年が経った2011年9月、東京・明治公園で開催された「さようなら原発5万人集会」のときです。そこでの武藤さんの、「私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です」と、被災者を置き去りにしたままなお原発を推進しようとする動きへの怒りを訴えたスピーチは多くの人の共感を呼び、インターネットを中心に急速に広がりました』とインタビューの中でも紹介されています。私も、あの時の「東北の鬼です」という静かなスピーチを読んで心を打たれた一人でした。
その後、武藤さんは事故を起こした東電に責任を問う「福島原発告訴団」を立ち上げ、武藤さんはその団長です。その経緯を、端折りながらコピーしてみます。引用元:http://www.magazine9.jp/interv/mutoh/

武藤類子さんに聞いた(その1)


なぜ「福島原発告訴団」は立ち上がったのか


作家の村上春樹さんの「東電の社長などは(原発事故の責任を取って)刑務所に行くべき」という発言が話題を呼んでいます。実は昨年、すでに原発事故における法的責任の追及を求め、立ち上がった人たちがいました。それが、東電幹部や政府関係者への告訴・告発に踏み切った「福島原発告訴団」。団長を務めるのは、一昨年の「さようなら原発5万人集会」でのスピーチでも知られる武藤類子さん。告訴に至った経緯や今の思いを伺いました。

武藤類子(むとう・るいこ)
1953年福島県生まれ。福島県三春町在住。和光大学卒業、版下職人、養護学校教員を経て、2003年に里山喫茶「燦(きらら)」を開店。チェルノブイリ原発事故を機に反原発運動にかかわる。現在、「ハイロアクション福島」事務局、福島原発告訴団団長。著書に『福島からあなたへ』(大月書店)がある。


この国では、責任が問われないまま放置し続けられてきた


編集部:あのスピーチからまもなく2年が経とうとしていますが、その「怒り」はどう変化しましたか。

武藤:・・・・
 ただ、2年という時間が経って、怒りだけではなく冷静さが大事だともより強く思うようになりました。怒りは原動力にもなるけれど、それに身を任せるだけではなくて、ここからどう進んでいけばいいのかを冷静に見つめる時期でもあるのだと思います。


 1年経っても、どこに、誰に事故の責任があるのか、まるで明確にされることがなかった。2011年8月に福島県二本松市にあるゴルフ場が、「福島第一原発の事故後、ゴルフコースから放射線が検出されて営業に支障が出ている」と、東京電力に対して汚染の除去などを求めたときも、東電は「原発事故で飛び散った放射性物質は、所有者のない“無主物”だから、自分たちに除染の責任はない」として拒否しました。


 それに、そもそも一般的に事故や事件が起こったときには、関係企業や機関に対して、捜査機関がすぐに証拠押収のための強制捜査に入りますよね。それが東電に対しては行われないことも、とても不思議だったんです。  一方で、人々が原発事故という「人災」によって、生活を根こそぎ変えられてしまったこと、そして無用な被曝をずっとさせられてきているという現実は、たしかに存在しているわけです。


 実は、福島では1989年にも、第二原発の3号機で原子炉に冷却水を送り込む再循環ポンプが破損し、2年近く運転が停止されるという大事故が起こっていました。1988年に地元の仲間と結成したグループ「脱原発福島ネットワーク」では、原因究明や再発防止を求めて東電に申し入れを20年間行ってきたのですが、そうした市民からの提言は一切受け入れられませんでした。2010年の6月にも、第一原発の2号機で冷却系電源が全喪失するという事故が起こっています。
 そして、何の対策も取られないままに東日本大震災が起こり、あれだけの事故が起こってしまった。その責任は、やはり大きいのではないかと思うのです。  


そして、こんなふうに「責任が問われない」という場面が、日本の歴史の中にはたくさんあったと思うんですね

 戦争責任の問題もそうだし、これまで多々起こってきた公害の問題もそう。一番責任があるはずの人たちの責任は問われないまま、いくつも放置されてきたと思います。そして国も大企業も、被害者を、弱い立場にある人たちのことを大事にしてこなかった。


 実は、東日本大震災原発事故が起こったとき、これで少しは日本という国も変わるんじゃないか、という思いがあったんです。これだけの大事故が起こったんだから、いくらなんでも国も企業も変わるだろう、ちゃんと被害者を守るために動くだろう、と。でも、1年経ってみて、実際には何も変わらなかったことが分かって、とてもがっかりしました。
 さらにこのまま、今回の事故の責任も問われないとしたら、この先もこの国は変わらない。十分な救済もされないまま、国民は黙らされていくだろう。そう思いました。それで、一緒に反原発の活動に取り組んできた仲間たちとともに、告訴に踏み切ることを決めたのです。

◎昨日(土)、兵庫県原発事故避難者が原発訴訟の原告団を結成というニュースをテレビのローカルニュースで見たのですが、夕刊でも朝刊でも見つからずネットで見つけた神戸新聞のニュースから。
「福島第1原発事故で、兵庫県内に避難している被災者20世帯約40人が27日、国と東京電力に損害賠償を求める集団訴訟原告団を結成した。9月下旬の提訴を目指しており、同日、神戸市内で結成式を開いた。
原告の1人、橋本洋一さん(50)は国の除染対策の不信感から福島県郡山市から三木市へと避難してきた。「避難者は健康や仕事面、二重ローンなど何一つ補償がない中で、将来の不安を抱えて生活している」と訴えた。訴訟では1世帯最低1500万円の賠償を求めていくといい、弁護団は「国と東電の加害責任を明確にし、十分な補償を求めていきたい」と訴訟の意義を強調した。弁護団によると、集団訴訟はすでに全国7地裁で起こされており、京都や大阪など他の10府県でも訴訟準備が進められている。」引用元
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201307/0006197731.shtml

◎◎ところで武藤類子さんは、今年沖縄を訪ねて、福島と沖縄を重ねて多くのことを感じたと話しておられます。
「この人に聞いた武藤類子さん(その2)」より:http://www.magazine9.jp/interv/mutoh/index2.php


生き抜いてきた沖縄の「強さ」に勇気づけられた


編集部: さて、武藤さんは告訴団の活動で全国各地を飛び回られていますが、今年の春には初めて沖縄にも行かれたそうですね。沖縄も昨年来、オスプレイ配備などをめぐって激しく状況が揺れ動いていますが、訪れてみての感想を最後にお聞かせください。

武藤:

 これまで、観光などでしか行ったことがなかったのですが、今回は地元の方に案内していただいて、普天間基地やその移設先とされている辺野古、米軍ヘリパッド建設が進む北部の高江、米海兵隊の飛行場がある伊江島なども訪れることができました。とても濃い旅で、自分の中でもうまく消化し切れていないのですが、考えることがたくさんありました。
 沖縄の中で米軍基地の占める割合の大きさも改めて実感しましたし、高江ではちょうど、オスプレイが低空飛行しているところに遭遇して…。これまで基地問題などに関心がなかったわけではないけれど、現地に行って、その土地の人たちと話をしないとわからないことがたくさんある、と実感しました。


編集部: 行って、話をしてみないとわからないことがたくさんある。それは、福島にも共通することかもしれません。

武藤:
 そうなんだと思います。ともすれば「沖縄の問題」「福島の問題」として封じ込められてしまいがちな点も同じだと思いますし、どちらも「国策」としてやられている、国を相手に闘わなくてはならない、という点も共通項だと感じました
 それだけに、ずっと闘い続けてきた人たちの話を聞いて、たくさんの苦しみを経ながらも、それでも生き続けてきた沖縄の「強さ」に触れたことで、力づけられる思いがしました。私たちも生き延びていかなきゃ、と強く思いましたね。
<後略>

◎<原発事故で奪われた「自然と調和した暮らし」><2年前に書いたことが、どんどん現実化している>は省略しました。
是非、全文を読んでみてください。
(写真も26日に引き続き、お茶仲間のNさんのビーズ作品です)