「子育てしやすさ日本一」と父の入院

箕面市が「日本一」という記事、スルーしようかと思いましたが、せっかく「日本一」ということだし、良いことでなら日記代わりの一頁に記録しておいてもいいかなと記事にすることに。
ところで、日曜日、午後から水中歩行に出かけた時見た田んぼの背丈がまた伸びていました。水中を30分歩いて温泉ジャグジーのところで、始めて4日目の方とお話することになり、翌日から4日間のお盆休みに入ることを知りました。帰り、受付の所に掲示があって確かめることに。その受付にいつも折り紙作品が飾ってあるのですが、今月は団扇に朝顔、極小のキューピーさんに浴衣が着せてありました。
 大阪府箕面市が「子育てしやすさ日本一」を掲げ、子育て世帯を誘致している。保育所並みの長時間保育をする「子育て応援幼稚園」の拡大や民間保育所の開設で、認可保育所に入所待ちの子供が1人もいない「真の待機児童ゼロ」を来年度に達成する見通し。4月には所得制限なしの医療費助成を中学卒業までに延長した。住宅都市として活力を維持する作戦の効果は表れ始めている。 
「真の待機ゼロ」というのは:国の定義では保護者が求職中の子どもや、認可外保育所に入所中の子供は含まない。「待機児童ゼロ」で有名になった横浜市もこの定義に沿う。一方、箕面市は「保育所入所申し込みで待機となった全ての子供」を待機児童と定義した。
 国の定義による13年4月現在の待機児童は11人だが、定義外も含めると94人。市は乳児に重点を置いた民間保育所2園の開設で定員を増やし、真の待機児童ゼロを実現する。「都市部では全国でも珍しい」(幼児育成課)という。
 保育所民営化で浮いた約2億円は医療費助成の拡大にあてた。中学卒業まで入院・通院とも1日500円(月額上限1000円)で受診できる。

彩都などのニュータウン開発もあって乳幼児は増えている。住民基本台帳によると、大阪府の0〜4歳の人口は08年3月から12年3月に約3%減ったが、箕面市は約12%増加。府内の市では唯一2桁で増えている。(日経10日(土)朝刊より)

◆◆昨日は、何十年ぶりかで救急車に乗りました。10日(土)の朝、父が起きぬけにバランスを失って倒れて動けなくなり、病院へ行くのを拒否していた父も、3日目、私から父に話に行ったところ、父も観念して呼んでもいいというので、119に電話。10時頃市立病院に着き、レントゲンの結果、腰椎が圧迫骨折の上に、ヘルニアということで、午後から即手術ということになりました。
お昼頃、入院の支度を整えた母を連れて夫も駆けつけてくれました。母がヘルニアは若い時にこの病院で一度手術したというのを聞いて先生がカルテを調べに。今回は前回と反対側だとか。
母が、そういえば、倒れる前日、父がいつになく戦争中の話をし出して、「東京にイチジクを送ってくれたことがあったな〜」と言ったんだとか。私が生れて一か月半ほど経った6月、加賀市の実家から豊中市岡町に戻って明くる日、父に召集令状が届いたと言う電報。それまでは陸軍に薬を卸す仕事で免除をうけていた28歳の父は、兵隊になって首都皇居防衛にあたることになり、千代田区昭和共立女子大の屋上で高射砲を撃っていました。その頃、母は、父の実家に私を連れて帰っていて、義母と庭に生っているイチジクを東京の父に送ったのだそうです。私も父の実家の中庭の井戸のそばに大きなイチジクの木があったのを覚えています。
手術室に入る時、夫と母が、「あんたもここに入ったんやったね〜」と。丁度30年前のことです。私が胃の手術を受けたのもこの病院でした。待合室で待っている間、母が「お父さんは運のいい人だから・・・」と。今回も圧迫骨折だけではなく、昨日市立病院に入っていなかったら、腸が壊死して腸閉塞を起こすところだったようです。
今朝、8時半ごろコーヒータイムに母を呼んで、「昨日はゆっくり眠れましたか」と夫の質問に母が、「それがね〜、いろいろ考えたら寝られなかった。もう十分生きたから不足はないし、特にここ2年は家でゆっくりしたから充分なんだけど、生きているうちに、ありがとう…と伝えておかないと…と思ったら」と涙ぐんでいます。
11時からの面会に出かけて、集中治療室で一夜明かした父に声を掛けました。お腹もへこんで、顔色も元に戻ったようですが、吐しゃ物の誤嚥があって、肺の機能が低下しているので酸素マスクをつけています。母に、ありがとう言わなきゃと促しましたら、「もう、大丈夫、命拾いしたね、また少し生きられるわね、お父さん。”ありがとう”言うつもりだったけど・・・反対に、ありがとうと言ってもらわなアカンようになるね・・」!?! あれ、あれ?でした。夫は、お父さんに、「今朝、お母さんは泣いてたんですよ。ありがとう言えずに別れては困るから生きてるうちに言っとかないと…とか言って」と打ち明け話をしていましたが、父は何のことか分っていなかったでしょう。
全く、泣いたり、笑ったり、出来る事が生きているってことですね。父は最後に”コーヒーが飲みたい”と言っていましたので、気力充分。酸素マスクが取れれば一般病棟に戻ることができます。
帰りの車の中でも母は、「これから何回でも”ありがとう”と言えるは、でも、あんまり言うと有難味がなくなるし・・・」と相変わらず極まりが悪いのか冗談ではぐらかしています。丁度いい機会なので、戦争中のことを聞いてみました。
4月生まれの私が、8月に入って首のリンパ腺が腫れて手術を受けることになり一時はダメかも知れないと覚悟したくらいだったようです。東京の父と葉書で外地に出るときの暗号を決めていたら、その言葉が書いてあって、義母と首の手術跡にガーゼを入れたままの生後4か月くらいの私と3人で、満員の汽車を乗り継いで東京の父に面会に行ったそうです。母の姉一家が当時世田谷に住んでいて、そこや中野区の親戚の家に泊めてもらっての面会。
その後、外地に行くことになり、9月に入って幹部候補生の上級試験を受けることに。レントゲン写真で肋膜と判り、熱海の療養所で冬を越し、昭和20年の早春には石川県の片山津の療養所に転院。
当時肺病は忌み嫌われ、父の妹は兄が片山津に居ることで友達が寄りつかなくなったと嘆いていたそうです。母は、私を連れてお見舞いに行く道すがら、大勢の人たちがお骨を抱いて出て来るのに出会ったのを今でも覚えている、面会した父にも「ここは子どもを連れてくる処じゃない」と言われた。でも、あのまま、大阪に出ていても、食べるものもなく栄養失調になっていたから、お父さんはついていたと思う。療養所で回復して個室を貰っていた。22年になって大阪の勤務先に復職できた。それまで母は私を連れて実家に戻っていました。農地改革で残った田畑を農業に慣れない姉一家と母親が総出で耕したりしているところに肩身の狭い思いをしながら置いてもらい、着物を売ったりしながら父の健康回復を待っていたそうです。
あの人は運の強い人だというのは、その時のことです。肋膜が見つかっていなかったら、外地で戦死していたでしょう。大阪に来てからも、給料が出なくて、代わりにサッカリンを渡されて、それをお金にかえる苦労をしたり。当時は、家族や親戚に必ず戦争の犠牲者が一人や二人いた時代でしたので、どこの家庭も大変な苦労をしていました。それなのに、泥棒に入られたり…母が、泥棒を追っかけるのを微かに覚えています。私が玄関の前で遊んでいたのに気付かなくて〜と子供心に責任を感じたのを覚えています。あれから65年ほどです。
母の圧迫骨折が3・11の時でした。父の腰椎も見事?に変形してヘシャゲていました。
外を元気に歩けるようになるかは一寸わからないですが、また毎朝一緒にコーヒーを飲める日も来るでしょう。
(一番上と下の花はバタフライ・ツリー、箕面の山は、昨日、手術を待つ部屋の窓から、淡いブルーはルリマツリ、濃い青はメドウ・セージの花)