父帰る


一週間バタバタとして庭を見ていなかったのですが、今朝、サンルームの東側にジンジャーの真っ白な花が咲いていました。
前回のブログでコメントを頂いた皆様、ありがとうございました。やっと、12日、葬儀が済み、遺影となった父が我が家に戻ってまいりました。
両親は、17年前、箕面にできた冠婚葬祭の施設ベルコみのおシティホールの会員でした。元結婚式場などで関西では知られていた玉姫殿の新しい形です。小中の同窓生のS君がいたころで、勧誘に来た時、会員になり積み立てが満期になっていました。病院からの遺体の引き取りから通夜式、遠方の妹夫婦の宿泊、葬儀、お骨上げから食事会、初七日の法要、そして自宅での後飾りまで、全部、お世話になりました。

父の遺体は我が家に戻らず、そのままシティホールの一室で安置されましたので、通夜の日の納棺の前に、霊柩車の運転席の横に私が乗って、我が家の近辺を一回りするというサービスがありました。車の中から自宅へ電話すると次男が出ましたので、「お爺ちゃんを乗せた車が家の周りを一回りするから・・・」と伝えました。我が家の前に差し掛かると息子たちが外に出て待ち構えています。運転手さんは車を止めてくれて、後ろからついてきたスタッフの方も降りて、父の顔を二人に見せてくださいました。二人が手を合わせて父と対面しました。母は中にいるようですが、声をかけないことに。それから車はバス道に入り、バス道を左に折れて市役所へ向かう通りに入りました。市役所の少し手前がシティホールです。これで心残りがなくなりました。

以前から、葬儀は家族葬で行うと母が決めていました。加賀市にいる父の弟、妹も90代の高齢で足が不自由。百寿の会が生きて会える最後と思っていました。お二人からは弔電と花かごが届きました。地元にいるのは母方の従弟夫婦だけ、この二人には声をかけて出ていただきました。あとは、神奈川にいる二人の妹夫婦と子供たち。それに我が家の二人の息子です。東京の長男は2日の休みを取って、沖縄の次男は、台風21号で関空が水没した影響で沖縄便が伊丹着でとれたものの帰りの便は16日(日)までないとのこと。合併の忙しさで2年間、帰省せずだったので、この際、有休を使って休むということに。天災続きで仕事は忙しいので普通の場合は休めないけど、祖父の葬儀ということで文句なしの休みになりました。中の妹の娘たち、東京勤務の一人は仕事が終わった最終で、もう一人は通夜の日から二日休んできてくれました。二人の子供たちは夫に預けてきたとのこと。下の妹の娘と息子は仕事が休めず弔電を送ってくれました。
父が102歳まで長生きしてくれたお陰で、残された者たちは嘆き悲しむことなく見送ることができました。棺の中には母が沢山の帽子とセーターを選んで入れました。祭壇は無宗教のすっきりした白っぽいものにお花が映えました。浄土真宗のお坊さんを呼んでもらいましたが、有難いお経とおりんのパフォーマンス?がとてもよかったです。箕面市の聖苑で火葬。その間、精進揚げのお食事をシティホールで。いとこ同士のテーブルと姉妹夫婦と母の二つのテーブルに別れ、父の遺影を飾って食事会をしました。

一番下の妹の旦那が脳梗塞で入院した時、父がお見舞いに行くと言い出したのが99歳の時でした。その年は7月の誕生日前後に白寿の会をして、Sさんは不自由な身体で箕面の風の杜まで来てくれました。その年の秋には、真ん中の妹の娘の新居を訪ねるといってまた東京まで出かけました。この時は簡易の折り畳みの椅子を持参して、遠出はこれが最後と約束していくことに。帰りは小田原でSさん家族とも食事を共にして、文字通りこれが最後となりました。
父はカメラと写真のほかは、自分のための贅沢をしたことがなく、その代わりに子供たち3家族の交流の機会のゴルフ会を年に一度開くようになりました。ゴルフが24回ほど、30年近く毎年3姉妹の夫婦と時にはその子供たちも加わって集まり、そのうち一泊の家族旅行になって続けてきました。お陰様で当初はすんなりとはいかなかった夫たち同士の関係も今では旧知の間柄となりました。無口な父が言いたかったこと、また残してくれた最大の宝物は姉妹家族仲良くだったのだと思います。
従弟妹たちのテーブルでも、無口なおじいちゃんと生涯話した時間は全部足しても2時間にはならない、いや1時間にもならないとか言って盛り上がったそうです。優雅な人だった、あんな人はもういないよな〜と話し合ったそうです。
母は、以前二人で選んでいた写真を遺影に使ってほしいと用意していました。首から2つのカメラを提げて帽子をかぶってリラックスした様子の父のいつもの姿です。10年ほど前の元気なころの写真です。今、その小さなスナップ写真を我が家に飾っています。
葬儀が終わった日、神奈川へ帰る娘夫婦2組、東京へ戻る息子と妹の娘を見送った翌日、休暇を取っていた妹の娘(東京勤めの独身)が我が家に寄るというので、母や次男も交えて5人でステーキを食べようということになりました。2日間喪主の大役を務めた母が乗り気です。肉屋さんで飛び切り上等の三田の肉を張り込んで、父の遺影を持ち込んで供養のひと時を過ごしました。大阪に遊びに来たときは必ず父と母の顔を見に寄っていたのですが、父亡き後も、続きそうです。

さて、沖縄の次男も今日はお昼の便で大阪空港から沖縄に向かいました。昨日は母との最後の晩餐を、カモリ(冬瓜)の煮物と、しめ鯖のカルパッチョとアジの南蛮漬けやお味噌汁を用意して、最初は赤ワインで乾杯しました。父が赤ワイン党でしたので。母の食事のこともあって和洋中いつもぐちゃぐちゃになります。
お葬式が終わって、3連休前に市役所と年金事務所の手続きだけはしておこうとバタバタしましたので、やっと今日になって一息です。思えば母が救急車で入院したのが3月16日、それから半年の間に母の再入院と父の入院がありました。そしてあの猛暑。熱中症と肺炎が重なっての緊急入院からまる2週間でした。それでも、母は父を見送ることができてよかったと思います。一度は先に逝ってもいいと気弱なことをいっていましたが、父は母に先立たれることだけは嫌だったと思います。8月8日、母が2度目の退院をした日、日中は父はもう食べなくなって寝てばかりでした。退院した母がベッドの父に「帰りました」と言ったとき、父は母の顔を見て「そうか、よかった」とニッコリと心底安堵した笑顔を見せて、また横になりました。この時の嬉しそうな弾けるような笑顔が今も瞼に残っています。