「山本美香さんを悼む」と、バスに乗って病院へ

「生き生き箕面通信」さんの記事「生命をかけて伝え続けた戦場の庶民の姿――山本美香さんを悼む」から。山本美香さんが銃弾に倒れて1年。なんだかとっても長い1年のような気がします。東電福島原発事故現場を訪ねて『日本にも戦場がある』と言われたそうです。追悼の記事をコチラで:http://blog.goo.ne.jp/ikiikimt/e/63177097c242d487b18ae4e48c2c0372
さて昨日の月曜日、母は俳句教室の日なので、私が一人でバスに乗って病院へ。
病院経由のバスは一時間に一本です。前もって時刻表を調べて10時51分に合わせて出かけました。
病院に着いて、まず売店で新聞を買って、病室へ。
朝の挨拶を済ませて、昨日の新聞と交換。読みやすいように一枚ずつ外して折りたたんで、腰の具合をたずねて、母の教室のこと、夫が明日山から帰ってくること、妹たちが明日お見舞いに来てくれることを伝えると、あとは話すことがありません。
母のように、あれこれ話が続かないものです。
父は早速新聞を広げて読み出していますし、そのうち、気を使って、”帰っていいよ”と。
帰るしかないか…、”じゃ、明日又ね”、と言って病室を出ました。
父と娘の会話、なんてこんなものですね。
帰りのバスの時間に合わせて、待合室でしばらく「昭和史」を読んで、バス停へ。時刻表を見ると未だ25分ほど待たないといけません。ベンチが日陰なので「昭和史」を読むことに。
どこかで呼ぶ声が聞こえますが、知り合いがこんな所にいるわけないし、私じゃない・・・と本を読み続けていると、ご近所のKさんが、手を振って大声で私を呼んでいます。真っ赤な車が先の方に停まっています。病院南側のライフプラザに用があっての帰り道、どうも私らしいと声を掛けてくださったのでした。まだ10分か15分も待たないといけないので、ここは、甘えて乗せて戴くことに。
車がNさんの前を通った時、Nさんご夫婦が相次いで亡くなられたと聞きました。奥様は長年地区福祉会の役員を務めて、70歳を過ぎてから会計に必要だからとパソコンを始められたと聞いていました。自転車に乗って元気にボランティア活動をされていた姿しか知らないのですが、1,2年前に亡くなられたとは…本当に驚きました。ご主人の方は、つい先日(月?)プールに向かってNさんの角を曲がる時、お姿をお見かけしたはず。それが4月ごろ後を追うように亡くなられたのだとか。まだ80代だったのではないかと思います。
家に帰って、別のNさんにお電話したら、奥さんのお葬式には地区福祉会の関係で出席したとのこと。そのうえ、ご本人のNさんが、またまた足の骨にヒビが入って松葉杖をついていると知ってビックリ!! つい先日、お茶の先生から預かった昔のネックレスを解いて新しいビーズを足したら素敵なネックレスにリメークできたというお電話を頂いたところでした。途中あちらに電話が入ったので、「お大事に〜」と電話を切りました。
まあ、人間、生きていれば何に遭遇するかしれませんね。


母の俳句を二句、書き記してみます:


  目の玉の浅い眠りの熱帯夜   


  晩夏光ふたりで行けるところまで  



(写真、上と下の二枚は芦原公園にて、ヒマワリはバス道の角の美容室前の鉢植え)