あれから丁度・・・秋のスロープ

昨日は、父が家で動けなくなって丁度1か月です。今日、9月11日は3・11から丁度2年半、916日目に当ります(「keniti3545の日記」さんがカウントしておられます)。そして、明日、12日は、父が入院して丁度1か月です。
先日の父の退院・老健入所を巡るバタバタは、文字通り、歩いて別の建物に移動し係りの方に説明を聞いて、たくさんの書類に目を通し、住所氏名電話番号を何度も書きこまなければならず、また病院に戻って一階で説明、4階で・・・という、背中が曲がりかけて歩くと神経に響く圧迫骨折をかかえ、その上耳の遠い母には過酷な二日間でした。それも本来なら妻たる自分の役目なのに”悪いね〜”と思いながらですので、一通りの目途がついて我が家でお茶を淹れて一休みしている時、母はつくづく言いました。「若い者がいる私は良いけど、誰もいない一人暮らしの人はどうなるの?」「そうね〜、遠方の身内が出てくるか、民生委員に頼むか、近所の親切な人に頼むか・・・」「それもできなかったら、野垂れ死にやね」「野垂れ死んでるじゃない、今年もたくさん」「そうやね〜」。

今週の月曜日、母が、父の歩けないのを不思議に思って、入院しているついでに整形外科の先生の診断を受けたいと言い出しました。肺炎も脱腸の手術も済んでどこも何ともないのになぜ歩けないのか、なぜ歩く練習をもっとやってもらえないのか。老健に入ってもリハビリは3日だけ、と聞いてもっと不安になったようです。私たちも、母の納得が第一なので、じゃ、朝早く出かけてリハビリの様子を見学させてもらおうということに。
リハビリの様子を見ながら、母が、病院に居てこのリハビリ訓練を受けることはできないんだろうか、このリハビリ病棟に移してもらうことはできないんだろうか・・・と。私も、在宅を目指すならその道もあるのではないかと思うようになって、もう一度院内の退院支援でお世話になっている方に相談に行きました。夫と母と私で、歩く訓練をして帰れるようになるまでリハビリをするというわけにはいかないでしょうか、と話してみました。
ほとんど、老健入所が決まりかけている時点での方針転換ということで、係りの方は驚かれたようでした。4階の父の病室を3人で訪ねてラウンジで話をしているときに、先ほどの方が病棟の責任者の方と談話室で話しましょうということに。
リハビリはある目標を決めてその機能回復が済めば家に帰ることになる、それで、本当に普段通りの生活ができるのですか? その支援を母や身内で出来ると思われますか? 覚悟がありますか?と聞かれました。介護老人保健施設老健)では、歩行の訓練は週3日間だけど、援助を受けながら徐々に日常生活が自分で出来るようにしてもらえます。夫と私は、すぐ、何を言われているか理解できました。97歳という年齢、良くなることより現状維持が精いっぱい。それより、家族の負担がこれ以上増えないようにしないといけないということです。92歳になる母のことを考えてくださっていると思いましたし、また、父の「お前が大変」ということでもあります。母と相談してお返事させていただきますということに。
帰りの車の中で話しました。母には辛いことですが父の今を認めてもらうしかありません。それはまた父自身の望みでもあるということを。「今度は違うよ、お母さん、以前の入院とは違う、あの頃よりずっと体力も意欲もなくなっているし、認知症も少し始まっているし…お母さんのことを考えたら、やはり、皆さんが考えてくださった老健入所で頑張って3か月やってみるというのが一番良いみたい」。母は昨日からず〜と一晩父のことを考えていたようで涙ぐんで頷きながら聞いていました。
お昼過ぎ、私が台所のテーブルでパソコンに向かっていた時のこと、玄関を開けて母が。手に大きな包み。
「千里へあれから行ってきた。はい、お土産! ここのタコ焼きはおいしいのよ〜」と。「え〜っ! あれからバスに乗って行ったの?!」
「もう、お父さんのことは諦めた・・・もう、お任せすることにした・・・」と。
母の様子が心配だった夫も仕事部屋から顔を出しました。「お母さんの気持ちはよくわかるし、僕たちも同じです。でも、お母さんがその気になれたのなら、それが一番だと思います。今のお父さんのお世話はお母さんではとても無理だから・・・」と夫も。吹っ切るために千里まで行ってバッグを買ってきたようです。母らしいなと思いました。母にとっても父の今を受け入れるには、70年間一つ屋根の下で起居を共にしてきた父との生活を諦めるには、これだけの涙と葛藤が必要だったのです。
母が隣に戻ってから、暫くして、私は心配して下さった退院支援員の方に電話をすることに。「母が納得してくれましたので、今まで通り進めてください。ハッキリ言って下さって助かりました。私たちは、よくわからず、今まで年の割には元気な二人でしたので、ひょっとして、訓練で元通りになれれば元通りの生活が送れるかもしれないと揺れ動いてしまいました。私たちも母も、これでやっと父の今を納得できました。宜しくお願いします」。
翌日の昨日、早速、老健からお知らせがあり、12日木曜日退院して入所してくださいということでした。もう一か所用心のため申し込みをしていましたが、空きがあったようです。関わって下さった皆さんのお蔭で、こんなに早く入所が決まりました。
ヨガが終わった母と昨日は4時過ぎに病院に。車いすに乗ってスッキリした顔の父はベッドのそばで何やら書類を読んでいました。リハビリの計画書でした。夫が押しながらラウンジへ。母は早速父に、退院して隣の老健へ移る話を知っているか?と。父は聞いていないと言います。
「どこへ行くの?」と見学に行ったり面接を受けたことは忘れているようです。それでも母が「家に帰りたい?」と聞くと「帰りたくても未だそんな話にはなっとらん」と。父が一番自分の今の状態を冷静に受け止めているようです。「ここは、病院じゃないみたいだ、拘束はされているけれど病人は誰もいない」「ここは外科病棟だからね」「今度行くところは私服で病院じゃないから、頑張って日常生活の練習しながら家に帰れるからね」「行ってみないと解らない」。
「じゃ、今から行ってみる!?」 昨日は素晴らしいお天気でしたので散歩には最適。夫が車いすを押して病院の外に出て、介護老人保健施設のある隣のライフプラザへ、5%斜度のスロープをゆっくり進みました。母は、病院の一階のがらんとした待合の椅子に座って待っていることに。
私はカメラを持って追いかけました。柿の実が色づき、栗の実がなり、春咲いていたアメリカ花水木が赤い実をつけ、アジサイが色を留めたままドライフラワーになっています。秋の西日を背中に受けていたかと思うと、今度は真正面からまぶしい日差しを受けながら登り切りました。あさってからコチラの建物だからね、と中をひと回りして外に。西には六甲山の山影が見え、北には見慣れた箕面の山が見えます。