NHK「知の巨人たち」・丸山真男「民主主義を求めて」(1)

NHKEテレのこのシリーズ、今回、番組の最初からの写真を並べたのは、このシリーズ全体が、最近言われ始めた反知性主義(*)の対極にある考えで作られている番組であるということを意識したからです。あの戦争から、あの大きな負の遺産から私たちは何を学ぶべきなのか…画面の言葉はこうなっています: 焼け跡から立ち上がった日本−そこに知の光があった
<*反知性主義(英語: Anti-intellectualism)は、本来は知識や知識人に対する敵意であるが、そこから転じて国家権力によって意図的に国民が無知蒙昧となるように仕向ける政策のことである。主に独裁国家で行われる愚民政策の一種。(Wikipediaより)>
◎いつものように少し端折りながら書き起こしに近い形で番組を記録してみます:


民主主義ができました万々歳という社会は決して来ない

世界中どこにもないし 将来も永久にない

民主化」でしかない 民主主義っていうのは

民主化」によってかろうじて民主主義である得るような

そういうものなんです 現実の民主主義っていうのは


 湯川秀樹   鶴見俊輔    丸山真男   司馬遼太郎

  あの時 思い描いた 未来とは −

日本人は何をめざしてきたのか

2014年度「知の巨人たち」

2014年7月19日(土)午後11時〜翌0時30分

再放送】7月26日(土)午前0時〜1時30分(金曜深夜)

敗戦とともに民主化が始まった日本。
あるべき民主主義の姿を生涯をかけて考え続けた政治学者がいます。
丸山真男。大学で教鞭をとる傍ら、地方を歩き人々に語り掛けました。
昭和35年(1960年)、新安保条約が強行採決されると丸山は政府を批判、一躍時代の旗手となる。
しかし、昭和43年(1968年)に始まった東大紛争では一転して学生たちの批判の的となった。
日本の政治を歴史の中で鋭く分析し次世代に大きな影響を与えた、
今年、生誕100年を迎えた丸山真男
民主主義を求めて思索を重ねた丸山の軌跡をたどります。


第3回 「民主主義を求めて 政治学者 丸山眞男

ナレーション:丸山が自らを語った貴重な録音テープが残されている。生前メディアへの露出を極端に嫌った丸山ですが、講演会や小さな勉強会では肉声を録音することを許した。「丸山真男手帖の会」の川口重雄さんによると残されたテープの量は「累計、優に100本を超える」。
死の直前まで20年の間、丸山はその思想遍歴を生々しく語っていた。民主主義を巡る丸山の思索は陸軍一等兵で迎えた敗戦とともに始まった。焼け跡で丸山が目を見張ったのは民衆の姿だった。
丸山のテープの声:「沸騰するようなエネルギーが満ちて、自発的集団が至るところにでき、広く連帯しようと、これから新しい日本を建設するのだ、再びファシズムの時代を繰り返してはならないという決意がですね、すきっ腹を抱えながら、みなぎっていたと思うのです。そういう原点、出発点だろうな〜 僕らにとっては。それが戦後民主主義なのですね〜
戦後民主主義に大きな希望を抱いた丸山真男。しかしそこに至るまでには厳しい時代の荒波を受けなければならなかった。
丸山は、大正3年(1914年)、新聞記者である丸山幹治の次男に生まれる。丸山の長男彰さんが保存している貴重な映像によると、大きな家で2人の女中がいたという。下町(新宿区愛住町)でジャーナリストをはじめ様々な思想を抱く人々に囲まれて育った。そんな大正デモクラシーの自由な空気がやがて戦争の時代へ飲み込まれていく。
昭和6年(1931年)、満州事変が勃発。丸山は、この年、第一高等学校入学。
当時学生の間に流行していた左翼運動にかかわることなく過ごしていた丸山。しかし、3年生の春に参加した講演会で予期せぬ事態に巻き込まれる。

講師は父と交流のあったジャーナリスト長谷川如是閑(にょぜかん)。長谷川は特別高等警察特高から危険な自由主義者として監視を受けていた。
長谷川が挨拶を始めたところで講演会はすぐに中止させられた。

検挙体験の手記」によると「それはまがひもなく私の過去十数年の生涯中嘗てなかった程の激動を私の心に起こした出来事である。『オイ! 一高、ちょっとここへ来い!』」左翼運動の活動家とみなされた丸山。本富士(もとふじ)警察署に連行され特高の取り調べを受けた。
テープの声:「バカヤロー!!と、バーンとなぐられる。長谷川如是閑なんていうのは戦争になったらすぐ殺される人間だ、と言われ、裁判手続きもあったもんじゃない。つまり、非国民、治安維持法の嫌疑をかけられたら、極端に言えば、殺してもいい。無限に国家権力が精神の内面に土足ではいりこんでくる。」
丸山は写真と指紋をとられ留置場に拘留された。すぐに釈放されるが、その後も特高の監視を受け続ける。国家による思想統制を身をもって体験したのだ。
翌年(昭和9年・1934年)、丸山は東京帝国大学法学部政治学科に入学。このころ、リベラルとみなされた東大教授は国粋主義者からの攻撃にさらされていた。ここで出会ったのが、ヨーロッパ政治哲学の研究者、南原繁であった。
昭和12年(1937年)、学部を卒業した丸山は、南原研究室の助手となる。「私はこのわずかに残されたリベラルな空気をむさぼり吸いながら戦時を過ごした」(丸山真男「自己内対話」より)
(写真、真ん中の中折れ帽子が南原繁、左端が丸山真男
南原の指導の下選んだテーマは「日本の政治思想史」。丸山は近代意識が江戸時代の儒学の中に生まれていたことを文献をもとに読み解きます。この研究は丸山の代表作「日本政治思想史研究」に戦後、結実します。
昭和16年(1941年)に、太平洋戦争が始まる。3年後の昭和19年(1944)、30歳の東京大学助教授丸山にも召集令状が届いた。陸軍二等兵として朝鮮の平壌の部隊に送られる。教育訓練のために配属された内務班で丸山はそれまでにない体験をする。
当時の担当教官広瀬稔さん「先生連中はおとなしい。軍隊でおとなしいということはボサッとしていることなんです。ボサッとしてるから殴られる。その殴られる現場を奥さんが見たら自殺したいと思う。かわいそうです。

銃にゴミが入ってたら叩く。天皇陛下からお借りしている品物だからと。何もかも天皇陛下です。
三つも叩かれたら、ギタギタ。皮がひっついているだけ、頬は。味噌汁吸うても痛いし、それはみじめなものでした。」
丸山は入隊から2か月後、栄養失調から脚気となり入院。徴集解除となった。

しかし、敗戦の五か月前の昭和20年(1945)3月、再徴集され、広島県の軍港、宇品(うじな)の部隊に着任します。ここに陸軍船舶司令部があり、丸山は参謀部情報班に配属され敵国の短波放送を傍受するなど国際情勢の収集に当たった。知り得た情報を任務の合間に記した備忘録が残されている。

敗戦したドイツの戦後処理など当時ほとんどの日本人が知ることのなかった生々しい国際情報。7月終わりには、連合国のポツダム宣言の情報を伝えるアメリカの国営放送を聞き、その内容を書き取っている:「日本国民ガ軍閥ヲ全ク除イタ時、日本ニ自治政府ヲ許シ、言論ノ自由ヲ認メ・・・」ポツダム宣言の全文を初めて見た時、『基本的人権の尊重を確立さるべし』という言葉を見た瞬間、からだ中がジーンと熱くなった」(「丸山真男座談」より)  <つづく>