昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争敗戦。
マッカーサーを最高司令官とするGHQは日本の非軍事化と民主化を推し進めていきます。GHQは戦争指導者を次々と逮捕。
昭和21年(1946)5月、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が始まった。
同じころ、丸山の論文が創刊間もない総合雑誌「世界」の巻頭に掲載された。
「超国家主義の論理と心理」。日本のファシズムを分析したこの論文は、すぐさま新聞に批評が載り大きな反響を呼ぶ。
当時東京大学丸山ゼミ生の政治学者石田雄(たけし)さん(91歳)も、学徒動員で内務班の体験をした。復員後、「超国家主義の論理と心理」を読んで強い衝撃を受け、丸山の教えを受けました。
「私は私なりにどうしてあんな戦争を支持するようになったのか、あんな軍隊によって実行された戦争を支持するようになったのか、何とか私なりに学問的に解明したいと思っていたところなんですね。『超国家主義の論理と心理』、日本が総力戦という形ですべての国民を自由に縛っていた、そういうのが一体どういう構造を持ち、どういう機能を果たしていたのか、現実から分析したのは、これが初めてだった。それで、これだ!でした。」
石田さんが注目したのは「抑圧の移譲」。それは上からの抑圧を、下のものを抑圧することで順次移譲し、組織全体のバランスを維持していくことです。
石田さん:「即座に軍隊体験を思い出した。軍隊にいて内務班でひどい目にあって、どうしてこういう目にあうのか、その構造が抑圧の移譲の体系で見事に説明された。つまり私たち学徒兵は知識があると思われていたけれども、逆にお前らは大学まで行っているのに何だと、いじめられる種になる。これは丸山真男の分析によれば、『抑圧の移譲』で下士官、古い兵隊、そしてその抑圧された心理的不満を初年兵にぶつけることによって心理的なバランスをとる構造が非常によくわかった。」
「この『抑圧の移譲』は軍隊だけでなく一般の国家秩序の至るところにあったと丸山は指摘する。そして誰も主体的な責任意識のないまま戦争をしていたというのです。
「我こそ戦争を起こしたといふ意識がこれまでのところ何処にも見当たらないのである」「何となく、何物かに押されつつ、づるづると国を挙げて戦争の渦中に突入したといふ、この驚くべき事態は何を意味するのか」(「超国家主義の論理と心理」)
丸山は、こういう戦時中の体系を「無責任の体系」と呼び分析することでこれを乗り越える道を切り開こうとした。
敗戦直後、深刻な食糧難の中、人々は新たな時代の指針を求めていた。東大の講義の合間にすし詰めの東海道線に乗って丸山真男が何度も向かった場所がある。静岡県三島市でした。
昭和20年(1945年)9月、三島大社の社務所に多くの市民が集っていた。市民主催の文化講座「庶民大学」です。
山口康司さんと渡辺宗泰さんは当時20歳前でした。
渡辺さん「平和の問題とか、民主主義の問題とか・・・民主主義なんて言葉もよくわからなかった。新しい世の中がどんな世の中になるかに対する期待ですね。それを聞きたくて来たと思うんですね」。陸軍士官学校で教育を受けているさ中で敗戦を迎えた山口さん「反発したですよ、新しい考え方に。天皇第一主義の陸軍士官学校だったです」「彼は士官学校を出れば高級参謀になっていたでしょう、戦争が続けば」「特攻隊だよ、特攻要員だから。だから、否定するのに、反発しながら、勉強したから、自然に変わっていった」。
「庶民大学」では丸山のほかに社会学者の清水幾太郎、英文学者の中野好夫ら新進気鋭の学者を招いている。「会費十円を払えばだれでも入れる自由な大学」。商店主、農民、主婦などさまざまな職業の人が参加した。
酒井喜代子さん(85歳)は中心メンバーだった夫とともに庶民大学を支えた。「先生方も東京にいらしたら食べ物に事欠くような時代でした。皆さん聞く方も熱心でしたね。活字や話に飢えていたから。そこでお話を聞いては少しでも自分が大きくなればいいという気持ちだったと思います」。
丸山(テープの声)「質問でもっぱら覚えているのは、民主主義とは何かということに集中した。全然わからない時代ですからね。むしろ、疑問ですね、民主主義に対する。民主主義になるとこうなるんじゃないか〜 その時の民衆の真剣な表情ね、質問ね、それはちょっと想像を絶しますね。つまり、今までの価値体系が一挙に崩れたでしょう。まったく精神的空虚なんです。飢餓の中の、飢えの中の民主主義の原点」。
丸山が民主主義の原点を明治時代にまでさかのぼって考えようとする最初の講義は「明治の精神」でした。
丸山(テープの声)「日本に内発的なデモクラシーの萌芽があったんだと言いたい気持ちは非常に強かったんですね。占領軍から押し付けられたものじゃないという気持ちが。明治の精神の中にもあったんだし、福沢さんとか持ってきてですね。」
明治維新後の日本に西洋の理念や制度をいち早く紹介した福沢諭吉。
福沢諭吉が「学問のすすめ」に記した言葉に丸山は注目する。
「一身独立して一国独立す」
主体性を持った個人が独立心を持って初めて国家も独立する。福沢の主張に丸山は新時代の精神を見出しています。
丸山真男が敗戦直後に綴っていた「折りたく柴の記」と名付けられた日記には:「デモクラシーの精神的構造。まづ人間一人ひとりが独立の人間になること。
他人のつくった型に入りこむのではなく、自分で自分の思考の型をつくって行くこと。
間違っていると思ふことには まっすぐにノーといふこと。」
三島(静岡県)だけでなく丸山は各地で講義を続けていた。その時の講義録をはじめ丸山が残した4万点を超える資料を管理している東京女子大学の丸山文庫。新たに発掘された資料の中で圧倒的に多いのが昭和20年代前半のものです。
丸山は北陸や長野などに向かい、一般の人々に民主主義をテーマに語り掛けていました。丸山の言葉を筆記した8回分の講義録が残されている。
信濃教育会での講演記録:
[政治に対して無関心・嫌悪の支配するところでは、
民主政治の実質が否定され、
政治家は独裁化し ボス化する。
独裁者は民主主義の敵であり 政治は形骸化される。
民主主義の実態はプロセスを重視するのである。
討論が重視されるのである。
権力に対して常に問いかけること、 問い続けることである。]
丸山真男文庫顧問 平石直昭さん:
「戦後すぐの本当に流動的な時期に、教師、一般の民衆、そういう人たちに向かって民主主義、自由主義について定着させていくために何が必要か具体的に考えて実践されたものです。
ちょっと驚きました。これだけの質の高さのもの、そして量ですね。
それをしかも非常に分りやすく説明している。」 (つづく)