昭和25年(1950年)朝、朝鮮戦争勃発。アメリカは日本を反共の防波堤と位置付ける。警察予備隊が誕生。再軍備が始まる。冷戦の結果は日本の針路を大きく変えようとしていた。
丸山(テープの声)「僕らの実感としては、なんと短い春だったという気持ちですね。
だって45年の秋でしょ、解放されたのは、軍国主義から。
五年経たないうちにね、全く反対なんですね、社会の雰囲気が。」
昭和30年代に入ると丸山は論文を次々と発表。
「日本の思想」(岩波)という新書にまとめた。丸山は物事を「である」−つまり出来上がった状態とみなすのか、「する」−つまり運動や過程に重点を置くかに切り分けて考えていく。民主主義も完成したものとして守るのではなく、日々民主化のプロセスによってはじめて生きたものになると説いた。
昭和35年(1960年)1月新安保条約調印。岸伸介首相はアメリカとの間で新安保条約を調印する。安保改定で日米関係をより対等にすることを目指した。しかし安保条約改定に反対する運動が盛り上がります。この条約によって日本がアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかとの懸念が広がっていた。
この頃東大法学部で助手をしていた三谷太一郎さん。
丸山の変化に気づいていた:「ある日ふっと先生が研究室に入って来られて私の座っている机のところに歩んでこられて『三谷君、今日デモ行進ってものがあるんだけど、君、一緒に行きませんか』って言われて、その時先生が言われたのは『僕もデモ行進なんて行ったことないんだけどね』。だから、当時の自分としては、サプライズっていうか、文字通り、驚愕しましたね。
その頃から先生の大衆行動、あるいは市民運動に対する見方っていうのが徐々に変わっていったんじゃないかなという感じはしますね。」
5月19日、新安保条約批准。岸首相は警官隊を導入して衆議院で新安保条約批准の採決を強行する。
それに対して丸山は発言を始める。5月24日、2500人の聴衆を前に講演を行った。
「19日から20日にかけての夜の事態を認めるならば、それは権力が欲すれば何事も強行できること、つまり万能であることになります。権力が万能であることを認めるなら、同時に民主主義を認めることは出来ません」(丸山真男「選択のとき」)
三谷太一郎さん「丸山真男が非常に危機感を持った。日本の議会制民主主義があの問題を契機に危機に直面したということを非常に痛切に感じておられて、危機感を感じられた。これは間違いない。それに対して丸山は多数者支配という日本の民主主義の伝統を新たな観点から見直していく必要がある、それが少数者の権利というところから民主主義というものを組み替えていく、そのことが必要なんだ」。
強行採決を批判し民主主義を守ると主張した丸山は多くの市民の共感を得ます。運動は市民団体、婦人団体など様々な層に一挙に拡大します。丸山は市民運動の旗手となっていきます。一方全学連の学生たちは安保改定阻止をめざし、直接行動に訴えていく。6月15日には全学連は国会に突入、警官隊との衝突の中、女子大生が死亡した。
全学連のリーダーだった政治評論家の森田実さん。丸山の主張は全学連が目指していた目的から人々の目をそらすものだったと批判する。
「我々は条約をなにしろ阻止したい、阻止しなければ日本の独立と平和は保てないというのが我々の主張だったけれど、日本は民主主義国なのか、民主主義を守れという世論が起こったことは事実。その論理の大きな流れを丸山政治理論がとらえた。その時点で丸山さんが大スターになってくる。ここから後、出てきた民主主義の論理は、日米安保条約を成立させるか阻止するかにおいては意味がなかった。そして丸山さんは一定の大衆性をもって安保闘争の後退期に、つまりもう敗北するしかない状況で人気が出てくる。私はある意味で丸山さんの政治学は敗北の政治学だったと思っています。」
昭和35年(1960年)6月19日新安保条約は自然承認され、岸首相は退陣。丸山は反対運動で示された民衆の自発的エネルギーにその後も期待していたといいます。
三谷さん「能動的人民というのをどうやって作っていくか、それに非常に関心を持つようになったということじゃないかと思う。アクティブディーモス(志のある人民)より方向性を持った能動的な人民こそが民主主義の核なので、どうやって育てていくか、そういう関心がだんだん強くなってきたんじゃないかと思います。具体的な日本の現実の中からどうやって新しい民主主義を作っていくか、そういうことに努めたと言えると思います。」
丸山は新安保条約の成立から2か月後、ノートに綴った。「永久革命は ただ民主主義についてのみ語りうる。民主主義は制度としてでなく、プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的なのである。35.8.13」
岸を継いだ池田隼人首相は国民所得倍増計画を打ち出す。「10年以内にやる。10年経ったら倍以上!」。
日本は高度経済成長の時代に突入。人々は豊かな暮らしに関心を寄せていく。評論家吉本隆明は、豊かさを求める人こそ、これから社会の中心的存在になると主張。丸山は彼らを否定的に見ていると批判した。
「丸山はこの私的利害を優先する意識を政治無関心派として否定的評価を与えているが、じつは全く逆であり、これが戦後「民主」の基底をなしているのである。」(吉本隆明「擬制の終焉」より)
丸山は高度経済成長の下での人々の意識を予測できなかったと30年後に語っている。丸山(テープの声)「これからは本当の近代が始まるというある意味での楽観があったんです僕の中に。高度経済成長期の日本の資本主義というものは僕には見通せなかった。」
参議院議員の江田五月さん。昭和39年東大法学部の丸山ゼミで学んだ。江田さんは丸山の言葉を12冊のノートに克明に書き取っている。後に講義録として出版された。
江田さん「まず岩波新書の『日本の思想』を読め、それを読みこなして、その議論をしようと」「議論が大好きな先生でした。」・・・
「丸山先生が言われたことで思い出すのは、常に精神の冒険をしなきゃいけない。自分がこれは正しいと思っていることを常に疑って、これを冒険に出して、無事に冒険を乗り越えて帰って来れるどうか。この人は素晴らしいとかいう話ではなくて、それを全部相対化して、その人の中に入りこみながら、しかし、それを絶対視するのではなくて、いろんな角度から検証するという学問態度というのをずっと持って来られたんで・・・」。
この頃アメリカの軍事占領下に育った民主主義は「虚妄」であるという評論家の発言が反響を呼んでいた。丸山はこれに反論して:
「渦巻いているのが戦後民主主義を『占領民主主義』の名において一括して『虚妄』とする神話である。
荒涼とした瓦礫の只中で汲み取った筈の思想的反省が「虚妄」のレッテルによってかくも無造作に押し流されようとすることに我慢がならない。
私自身はどんなに差引勘定をしても大日本帝国の「実在」よりは戦後民主主義の「虚妄」に賭ける。」(「現代政治の思想と行動」後記 草稿)
江田さん「『虚妄』だと言われながら、これしかない。スカスカの民主主義であっても、もっと内実を充実させていく努力をしなきゃいけない。そういう努力を目の前の学生を相手に一生懸命やろうと・・・」「そんなね〜、民主主義というのは、さらさらっと勉強してさらさらっと捨て去って、民主主義はだめね.なんてそんなもんじゃないでしょう。そういうところがあったと思います。かなり骨太の民主主義者だったですね。」 (つづく)