丸山真男「民主主義を求めて」(4)住民運動とパートタイム政治参加と被爆体験

昭和30年代後半、高度経済成長の裏でその歪みが生じていた。三重県四日市石油化学コンビナートによる大気汚染が問題となるなど各地で公害が深刻化した。
敗戦直後、庶民大学をつくり丸山を講師として招いた静岡県三島市
昭和38年、この町に石油化学コンビナート建設計画が持ち上がった石油化学コンビナートが環境破壊につながるのではないかと、庶民大学に参加していた人たちを中心に三島の住民が立ち上がりました。


山口康治さん「ものすごい広い田んぼですね。こういう田んぼがダーッと」。広大な農地に予定された四日市を上回る規模の計画。
庶民大学のような数々の勉強会が運動を支えた。町内会や婦人会を中心にした運動は三島から近隣の町に広がっていった。
渡辺宗泰さん「国家権力という大きな力に対して住民が反対して阻止した」。山口さん「庶民大学に学べ あれが大事だった。」
一年近くの運動の結果、国、県、市が計画を断念。住民運動によって大規模な開発計画が中止となった初めてのケースとなった。
丸山は政治家でない一般の人々の行動こそが大事だと事あるごとに語っていた:
「デモクラシーの考え方はパートタイム政治参加です。つまり大部分は職業政治家じゃない国民の。
人民主権という意味は、大部分は職業政治家じゃない人民が政治についてね、最後の発言権を持つという考え方でしょう。
マチュアが、知らねぇやとシラケちゃうと、政治なんて関係ねえやということになったら、民主主義はおしまいです。
少しの時間を割いて職業政治家のやる政治を監視しなきゃいけない。
やっかいなんですよ。やっかいなことによって、デモクラシーは成り立つ。
そういう政治の仕組みなんです。」(1977.10 「丸山真男先生と語る会」岩手県東山町公民館)
政治学者石田雄さん「民主主義には3つの側面がある。制度と理念と運動面と。制度は動かないけれど、運動と理念は過程として作り上げていかねばならない。だから、不断の努力によってしか活かすことが出来ない」.というのが、私は丸山のメッセージだと思います。

丸山は海外でも高い評価を受けます。欧米の大学に何度も招聘され、自身の政治思想を広めていきます。丸山の著作は、代表作「現代政治の思想と行動」「日本政治思想史研究」と次々に翻訳された。フランス、ドイツ、中国、韓国など現在まで6か国語で丸山は読まれている。
イギリス人の社会学者ドナルド・ドーアさん(写真右端しゃがんでいる男性)。昭和25年に初めて来日して以来幅広い視野から日本研究を進めている。現在89歳。自身、最後と位置付ける研究のために日本に滞在しているドーアさん。丸山の政治学に初めて触れた時、これまでの日本になかった新しさを感じたと言います。(流暢な日本語でインタビューに答えます)


ドナルド・ドーアさん:
結局誰もその最終的な責任をとらない。
つまり、無責任政体になったという彼の分析が当たっていたと思います。
丸山さんが世界の政治学の素晴らしい代表的人物だった。」

丸山と交流を深めていくうちにドーアさんは自己の信念を貫き通す姿勢に打たれるようになったといいます。
「偽善を見抜く力が非常に優れてました(ネ)。
政治家の繕い、言ってる言葉の裏にある本音を

明かすのに非常に上手だったです。
そして、それを 明かす 勇気があった。
多くの人はそうだと知っていても出る杭が打たれるからあまり言わない。
ところが丸山さんは言った。
それだけの勇気があった。
それで偉いと思って いい友達になりました。」
海外滞在中丸山はたびたび戦争体験を巡って激しい議論をしている。イギリスのオックスフォード大学での出来事をこう語っている。
丸山「オックスフォードに行ったときにカレッジの若いやつが、なに戦争体験は風化する、核爆発なんて言って騒いでいるけれど、そのうち風化すると。僕はちょっと激高してね・・・
昭和20年8月6日、丸山は広島で被爆していた。丸山がいたのは爆心地からおよそ5キロの陸軍船舶司令部(広島県宇品)。敗戦後20年にわたって丸山はそのことを公に語らなかった。海外から帰国した丸山は重い口を開き初めて被爆体験を語り始めた。
突然目の前が目がくらむほどの閃光がしました。閃光がしたと同時に私が覚えているのは、二間ぐらい先に立っている参謀の軍帽がプーッと飛びました。上にビューと飛びましたね。

丸山は司令部の建物の裏側にいたため直接の爆風は受けなかった。司令部の広場にはやがて被爆した広島市民が集まってきた。
よろよろと三々五々入ってきました。塔の前でバタッと、見る間に広場はいっぱいになって 何百という地上に横たわった人の唸り声が今でも耳に聞こえるようです。」
丸山は三日後に爆心地に入ります。救援と調査のために歩いた丸山が被爆後に初めて広島に足を踏み入れたのは32年が経った昭和52年(1977年)のことでした。封印していた記憶を敢えて語るようになったのは、被爆者への特別な思いがあったからでした。

「まだ今日でも新たに原爆症の患者が生まれている。
長期の患者、あるいは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいる。
日々起こっている。
毎日 原爆は落ちている。
広島は 毎日起こっています。 
毎日 新たに
毎日 我々に
問題を突き付けている」

丸山はその後核兵器の開発を進める国々に対して批判を続けた。
「戦争を選んだら核戦争になりますから おしまいですから
戦争は国家の手段として選べない 現実には
日本は唯一の原爆被爆国であるということの
意味をもっと活かさなきゃいけない
世界に胸をはって何とお前たちはバカだと 言わなければならない」(つづく)

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◎昨日は丁度69回目の広島原爆忌
今年の平和宣言と、被爆の年に生まれ原爆詩の朗読を続ける吉永小百合さんの記事を追加しておきます。
広島市長の平和宣言の一部を写真で(読売新聞夕刊より)



吉永小百合さん「どんな状況でも、核兵器はノー」 (朝日新聞デジタルヘッドライン:http://www.asahi.com/articles/ASG8474Z5G84PTIL030.html)

被爆の痛み、未来へつなぐ 吉永小百合さん、命の朗読


 広島への原爆投下から6日で69年。原爆詩の朗読を続ける俳優の吉永小百合さん(69)が、朝日新聞のインタビューに応じた。終戦の年と同じ1945年に生まれた吉永さんの人生は、広島、長崎への原爆投下で幕を開けた「核の時代」と日本の戦後の歩みに重なる。吉永さんは「日本人だけはずっと、未来永劫(えいごう)、核に対してアレルギーを持ってほしい」と求めた。2011年3月の東京電力福島第一原発事故で、日本は「核と人類は共存できるか」という課題とも向き合う。吉永さんは「本当の核の威力というものが私にはまだ分かっていない」としつつ、こう語った。「でも、原子力の発電というのは、特に日本ではやめなくてはいけない。これだけ地震の多い国で、まったく安全ではない造り方、管理の仕方をしているわけですから。どうやって廃炉にしていくかを考えないと」。

【特集】核といのちを考える


■思いを受け止め、伝えたい

 ――詩の朗読で自ら選んだ一つが、「にんげんをかえせ」で知られる詩人・峠三吉の「原爆詩集 序」でした。

 「どんな朗読会でも最初に読む、まさに『序』なんです。峠さんのすべての思いが詰まっています。まったく原爆のことを知らない方でも、『えっ』という思いになってくださる気がするので、日本語と英語で読むようにしているんです」

 「本当のことを言えば、もっと強い表現の詩がたくさんあります。ただ、それを直接読んでしまうと、最初から『そういうものは聞きたくない』っていう方の拒否反応があると思うんです。最初に分かりやすく、やさしく読んで、『あぁ、こういう詩があったんだ。じゃあ違う詩も読んでみよう』と思ってくだされば一番いい。そういう詩を中心に読んできました」

 ――朗読の手応えは。

 「私の力は小さくて、大きくならないんですけど、例えば朗読を聴いた学校の先生たちが子どもたちに教えてくださり、その時の生徒が今、先生になって、ご自身が子どもたちに教えてくださっている。そういうことが大事なんですね。受け止めてくださった方が、また次に伝える。それが被爆者の方たちの一番の願いだと思うし、ご年齢的にもなかなか、先頭に立って動けない場合もあるから、私たちがその思いを受け止めて伝えていかないと」

 「そうすると、全然そういうことを知らない、知ろうともしない人たちにどうやって分かって頂くかが一番の問題でしょうね。スティーブン・オカザキという日系アメリカ人の監督がドキュメンタリーの冒頭で渋谷の女子学生にインタビューして、『1945年8月6日に何が起きたか知ってる』って聞いたら、『えー、知らない、地震?』って。鳥肌が立つほど悲しかったんですよね。そんなことが日本であってはいけない。みんながあのときの痛みを分かろうとしないといけないと思います」