丸山真男「民主主義を求めて」(5)東大紛争そして退官

昭和43年(1968年)国民総所得が世界第2位になり、日本は世界の先進国の一員となっていた。戦後生まれのベビーブーム世代は過酷な受験戦争にさらされていた。大学では大人数のマスプロ授業が一般化していた。



その頃丸山の長男彰さんは日本大学に通っていた。「これは当時の両国講堂。日大だったからね。そこで大衆団交をやった。」
昭和43年5月、日本大学では大学当局による34億円にのぼる使途不明金問題が表面化する。学生側は全額共闘会議―全共闘を結成こ、学園の民主化を求める闘争を始める。丸山彰さん「目の前の自分の大学でこういう問題があった時に自分がそれでも面倒なことが嫌だから勉強優先でいいのかどうか、ま、最初のうちは恐る恐る参加. みたいな…」
彰さんは大学に改善を求め占拠した校舎にバリケードを組み仲間とともにストライキに入った。変革を求める動きは社会全体に広がっていた。
この年の10月、東京新宿で大規模なベトナム戦争反対運動が起きた。その中に彰さんもいた。「騒乱罪が適用され、ほとんど人がいなくなって、僕はノロマだから残ってたら、機動隊に捕まって、急所を蹴られたり、最後はこの前歯も折られて・・・」。
父、丸山真男は息子の行動に口をはさむことはなかった。「むしろ好意的に見てたんじゃないかな。全くこういうのにノータッチだったら却って批判的だったんじゃないかな」。
豊かさの中にある矛盾に異議を申し立てる・・・当初、丸山は理解を示していた。「高度成長期以後の日本の政治的社会的現実は、ある意味で固定したレールの上を滑るようになってしまった。軌道が決まってしまっている時代。それはそもそも民主主義ではないのですよ。民主主義とは多様な可能性からの選択でしょう。」


昭和43年(1968年)1月、東大医学部ではインターン身分保障を巡って学生が無期限ストに入った。他学部でも教育環境の劣悪化に対して不満を持つ学生たちが闘争に加わって東大全共闘を結成(7月)、学園の民主化を訴える。全共闘安田講堂を占拠し大学解体を主張するようになっていく。
元東大総長の佐々木毅(たけし)さん、当時は法学部助教授。教授会で丸山と一緒だった。全共闘の対応策を討議していた。

政治学者・佐々木さん「結局、大学解体、教育解体、まぁ、ハッキリ言えばネガティブなメッセージ以上のものが先に待っていそうもないということが、だんだん時間が経つ中で直感する人が増えてきたということは間違いないだろうと思いますね。学生たちのセルフガバメント・自治が期待できないとなれば話し合いは結局まとまらない。そうすると最後、どうにもにっちもさっちも行かないことになるんじゃないかな、ということは、とりあえず警察力を持って事態を一度整理するしかないと」
昭和44年(1969年)1月14日、東大の学部長会議は機動隊導入を決定する。
丸山は法務主事教員の立場から沈黙を守っていた。全共闘による林健太郎文学部長監禁に抗議したこともある。丸山は体制側とみなされるようになる。

丸山と交流のあった教養学部助教授・折原浩さん。当時大学当局に疑問を持った折原さんは丸山に自らの考えを伝えた。
折原さん「窓の外まで押しかける学生に対して、どうして一言丸山さんの方から声をかけないのか、どうしてそんなに受け身といいますか… 尊敬する丸山さんがどうして今教授会とか自分の所属集団から精神的に独立した者としての見解を今表明してくださらないのか。私の尊敬する教授がここに至っても沈黙を守っておられることが東京大学の現状、退廃という言葉を使いましたがね、痛々しく非常に痛切に象徴しているんじゃないかということを書いたパンフレットを丸山さんにお送りした。先生の意見を聞かせてください。先生のおっしゃる通り状況から、自分の職場、教授会がどうあろうと、そこから精神的に自立して自分の意見を形成して学生ともぶつけ合って大学を運営していく、それが大学の変革だし民主化じゃないですかっていう風に学生も思ってるんですね。遮(さえぎ)られた目に見えない壁を乗り越えようとしない」
全共闘の学生は丸山に対し形式的原則に固執して回答を拒否していると批判を募らせる。

当時東大文学部の助手だった加藤尚武(ひさたけ)さんは百数十人の学生に取り囲まれる丸山の姿を目撃した。
哲学者加藤尚武さん「丸山さんが椅子の上に座らされて、周りに地獄の役人みたいな・・・丸山の頭の上から怒鳴りつけたりして・・・
まるで丸山の思想を読んだことも聞いたこともない連中がどなっているとしか思えなかったですね。だから丸山さんはひどく君たちを軽蔑するとかなんとかいってたんですよね。ただ丸山さんは、ある意味で古き良き大学の最も良いところを温存したいというタイプだったから、学生の方から見れば大学解体よりも大学温存の方ですから、ひどく標的になりやすかったと思うんです」

当時大学院生で丸山の下で研究をしていた飯田泰三さん。
丸山から全共闘への疑問を聞かされていた。
政治学者・飯田泰三さん「心情ロマンチシズムみたいなネ、それが強すぎるみたいなことは非常に言われていました。
彼らは主体性という言葉を使っていたわけです。全共闘の主体性というのは、内なるエネルギーを爆発させるだけで、そういう自由な独立した人格と結びついていないではないか。そういうことは盛んに言われてました。」

全共闘運動は東大、日大だけではなく全国150以上の大学に広がっていきます。
日大全共闘に加わった息子彰さんは週刊誌で取り上げられる。全共闘運動を巡って親子の間で溝が広がり始めていた。
彰さん「僕(丸山真男)の考えている闘争とは違ったものになってきてるから、ここで引っ込んでいいんじゃないかと言われ、一生懸命全共闘から退かせるような、直接は言わないけれど、参加しても展望が開けないのではないか、自分の勉強がおろそかになるんじゃないか懸念していた。僕の方は最後まで戦うという姿勢を持ってた時に、ちょっと対立っていうかな、言うことを聞かなければ 面倒見ないから 家から出て行けと言われたこともありましたね」

1月18日、安田講堂封鎖解除のため東大構内に8500人の機動隊が導入された。機動隊の放水や催涙弾の攻撃に学生は火炎瓶や投石で応戦した。

この日、丸山は貴重な文書を守るため法学部の付属施設「明治新聞雑誌文庫」に泊まり込んでいた。(1968年(昭和43年)の東大紛争の際、大学の研究室を占拠して貴重な資料・フィルムを壊した全共闘の学生らに「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言したWikipediaより引用by蛙)
その時一緒だった三谷太一郎さん「床にマットを敷いてあった。その上で寝るとおっしゃって。その時先生は角瓶のウイスキーを持って来られて非常に強い睡眠薬を割って飲んで。あんまり体に良くないと内心思っていました。それが先生の死病、死に至る病の発火点になったんじゃないかと今にして思いますね」

1月19日、30時間を超す攻防の末、機動隊は安田講堂の封鎖を解除。300人以上が逮捕された。

元院生の社会学者・折原浩さん「闘争で盛り上がった。それで行き過ぎもあろう。だけど全共闘がいろいろな大学の在り様を問題にする、人間の原点を問題にする、学問の在り方を問題にする、そこを答えは出し切れなかった。丸山さんはロマン主義というか、そういう風に抽象的に集約されちゃうわけです。あの盛り上がった「生(せい)」から何を学ぶかっていう発想.全部 落ちちゃう。それをロマン主義なんて退けちゃう。あれだけ犠牲を払ったのに、一体何をその後やっていくのか。それを相手方の責任に転嫁してしまうと、後の秩序に戻っていく人たちも何も問題を汲み取れないんです。」

政治学者・三谷太一郎さん「先生にとっても非常にショッキングな運動であり、また事件であったと私思うんですけど、まぁ、当時の学生のいわゆる大学闘争に対して、もちろんその問題提起的な意味というものは認めておられたと思うんですが、あの行動形態に対して、それを肯定していたとは思えない。大衆的な集団的圧力もまた自由の脅威となりうるという、そういう集団的な大衆行動の圧力という、そういう面を非常に強く感じられたんじゃないかと思うんですね。大学が戦前、戦中から築いてきた良き意味でのリベラルな伝統が、あれによって断絶することが先生にとっては不本意だったんじゃないか、そういう私の見方ですね。」
それから2か月後、丸山は心不全と肝炎のため入院。病床でこう綴った。
「今度の紛争を通じて私の胸にぐさとつきささった数少ない批判の一つは『先生は東大を辞めて丸山塾をひらくべきなのです』というたぐいのものであったー『東大教授』として今日までとどまって来た、今、その不決断のむくいが来たのだ」

昭和46年(1971年)、定年を迎える前に丸山自ら東大を去った
日大紛争が収束した後、数学の研究者への道を歩み始めた長男の彰さん、退官を選んだ父の苦悩を見ていた。
丸山彰さん「残りたいという気持ちがあまりなかったと思う。東大の紛争について自分が責任のあることをできなかった。あとは大学改革を自分なりに考えたけども全然実らない。自責の念と失望と、その二つじゃないですか」 (つづく)