「集団的自衛権」はアメリカの戦争の下働き


内田樹の研究室」、8月15日のブログは「終戦記念日に」というタイトルで集団的自衛権についてでした。
「焼き場に立つ少年」の写真を見て戦争の話になり母が「讀賣だけ読んでいてはアカンね」といった日は丁度8月15日でした。隣に戻った母は気になって社説を読み直したようです。そのあと、母は、「あなたがカッカしてるようなことは書いてなかった。平和を望んでると書いてあった」と言うので、「お母さん、だれも戦争する、戦争を目指しているなんて今どき言って、戦争しないでしょ。平和のためにと言って戦争するんじゃないの」と言ったのですが、夕方、讀賣の夕刊を持ってきて「まあ、この社説を読んでご覧」と言って朝刊を添えました。

終戦の日」の社説のタイトルは「平和国家の歩みを堅持したい/集団的自衛権で抑止力高めよ」です。長年、讀賣の社説を読み続けてきたのですから、私が一言いったくらいではわからないでしょう。特に娘の言うことでは・・・。情報源が讀賣新聞とテレビだけの超高齢者の母が、二度とあんな戦争を起こしたいと考える人が日本人の中にいるわけないと思い込んでもいるのですから無理もありません。今更、日本の総理大臣が口では「平和」と言いながら着々ともう一度戦争ができる日本の準備を進めてるなんてことは認めたくないのですね。あと何年生きるか・・・今のままの方が良いのかな〜と考えたり、次の選挙があるとしたら、やっぱり本当のことに目を背けている母では逆に可哀想かなと思ったり。讀賣の社説は私の当面の宿題です。「生き生き箕面通信」さんの社説批判は母にはきつすぎて逆効果かな〜とか、この内田先生の文章なら、解り易いかな〜と思ったり迷っているところです。

引用元:「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com/2014/08/15_0918.php

終戦記念日


<前略>


安倍政権のいう集団的自衛権」なるものは別に日本政府の軍事的フリーハンドを意味するものではない。これから先、日本軍はアメリカ軍との共同行動にいわば「下働き」として帯同するだけのことである。日本軍がアメリカの事前許諾なしに「密接な関係にある国」(そんなものアメリカ以外にどこにあるのか)のために軍事行動を起こす可能性はない。


日本がアメリカの属国であるという事実は国際社会においてはすでに周知されているが、閣議決定はこれからは軍事的にも属国として働くつもりであると宣言した。アメリカ大統領がこれに対して「はい、どうも」以上の感動的なコメントをするはずもない。
国内の世論の熱の低さもそう考えると腑に落ちる。


アメリカと一緒」ということは、戦時作戦統制権は米軍司令官に属するということであるいつ、どこで、誰と、どのような戦争をするかについての決定権は日本政府にはない。権限がないなら責任もない。戦地でどのような非道なことが行われようと、それは「日本の与り知らぬことである。文句があったらアメリカに言ってくれ」で言い抜けられる、日本人の多くはたぶんそう考えている。



どうせ「戦争の主体」にはなりたくてもなれないのだ
これは先の戦争指導部の人々のありように酷似している。彼らは戦争の主体であることを否認した。
丸山眞男はこう書いている
「わが国の場合はこれだけの大戦争をしながら、我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。」(『現代政治の思想と行動』)


戦犯たちは口々に「自分自身は開戦に反対であった」と証言した。キーナン検察官の最終論告にいわく。
二十五名の被告の全ての者から我々はひとつの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。(・・・)彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します。」(同書)



こんなSF的想像をしてみる。
安倍政権の集団的自衛権容認がきっかけになり日本が「次の戦争」に巻き込まれた。戦後、その戦争犯罪が裁かれたとき、出廷した日本政府の要人たちは口を揃えて「我々は戦争を惹起することを欲しなかった」と証言した。
「だが、アメリカに追随する他に択ぶべき途は開かれていなかった」。


日本人が69年間抑圧し続けてものが姿を現わしたとき、それはもう「二度目は笑劇」で済ますことはできないだろう。

<写真は、坊島(ぼうのしま)の田圃とフェンス仕立て(?)のスイカ