大学祭と「国立大学から文系学部廃止を狙う安倍首相」



今日11月3日は「文化の日」。Wikipediaでは、国民の祝日に関する法律祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としていて、1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日となっています。大事な日ですね。

昨日2日(日)、夫は中国出張のため午前中に関空へ向かうことに。私は午後から大学祭見学とその後のサークルの同窓会のため電車で神戸へ。
同級生5人とは子育ての頃から切れ目なく何年か毎に会ったり、子育てが終わってからは京都のMさんの車で一泊旅行をしたり、彼女のマンションに一泊したり、葵祭祇園祭を楽しんだり、ここ数年は毎年のようにあっていました。一方、サークルの先輩から呼びかけられた同窓会は夫と二人で出席したり、しなかったり。去年は二人で、今回は、事前に同期のSさんからお電話があり、一人で出席することに。
移転先の学園都市へ三宮から地下鉄で。11年前に一度来たことがありますがそれ以来。
若い学生さんたちの模擬店が出ていて、集まった私たちは最高齢の部類。気さくな若者が話し相手になってくれて、今回の世話役氏が「みんな50年前の卒業生」と自己紹介。「へぇ〜」と驚かれましたが、だれかが、「お婆ちゃんやお爺ちゃんと話してる感じ?」というと、「はぁ〜、そんな感じです」と。20歳前後ってこんなに可愛いの〜?と思いました。まだ高校生みたいな感じの人達は、今年入学した人たちですね。そういえば、模擬店、私たちもクラスで出しました。終わって阪急六甲駅近くの八幡神社でうちあげをしたような・・・。若い時があった、あったと思い出しました。
3時過ぎから始まったミスコンを前から2番目の席にずらっと座って見ることに。各学部1回生が出場しているらしく、クイズに答えたり、パフォーマンスをしたり、最後に投票で1位、2位が決まります。私たちは敬老席みたいになってしまい、投票の時に席を立つことに。そろそろ早めに三ノ宮の夕食会場へと帰る途中、よさこいを踊る人たちが2グループ。これは衣装も踊りもとても良かったです。
2部の夕食会から参加という方たちも数名加わってJR三ノ宮駅近くのホテルの会場で8時半まで。69歳から76歳までが16名ほど。私のテーブルでは、インドとトルコに行かれた方がいて、イスラム教の話になりました。コーランは良いことが書いてある。生半可な知識で判断すると間違う。習慣や風習にはそれぞれみな理由がある、キリスト教や仏教からの見方だけで判断してはイケナイというお話でした。それから、インドのこと。身分制度の功罪について。数学の話。これからは中国よりもインドだと思うとのことでした。
8時前に一人づつ近況報告して終わることに。ガンの治療中がお二人、数値の話が出たり、健康維持の話が出たりでしたが、皆さん社会と何らかの関わりを持ったり教えたりと前向きのご報告でした。最後に夫に先立たれたMさんが、人とお話しながら食事が出来ることがとても楽しみで今日のような集まりは貴重な機会と言われ、切実でした。
阪急電車で帰るのは同期のIさんと私だけ。二人でお喋りしながら帰りました。Iさんとはクラスは違ったのですが、ゼミが同じでした。ゼミの今は亡き河村先生に唯物史観を教わったとIさん。私は河村先生と言えば、「新聞を読んだら、ニュースソースを確かめなさい。AP電か、新華社か、タス通信か…と言われたことを思い出す」と。50年といえば半世紀よね〜とIさんも。変わったのか変わっていないのか、時代も人も・・・という1日でした。
◎さて、「Various Topics2」さんの「国立大学から文系学部廃止を目指す安倍首相
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/881b238675ce72822eefec5ca696b488
新装開店のブログではLITERAの記事「国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革”」を取り上げておられます。
○ここでも、同じ個所をコピーして:


 こうした、大学に市場原理が導入されカネをうまない学問を切り捨てていく流れが、いっそう加速しているのには、もちろんあの男の登場が背景にある。

 あの男、安倍首相は5月6日のOECD閣僚理事会基調演説でこう語っている。


「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。」


 安倍にとって「学術研究を深める」ことなどまったく無意味で、社会のニーズにあった職業に就けるための教育こそが必要だと考えられている。ほとんど大学教育そのもの否定である。大学の専門学校化といってもいい。象徴的にいえば、文学部の存在意義など見い出しようのない教育観、学問観である。


「人間とは何か」「社会はどうあるべきか」そしてそもそも「学問とは何か」を問い、先人の知的蓄積を継承し、未来を構想する知的活動を「教養」と呼ぶことにしてみよう。こうした教養を欠いたままで、科学技術の発展を追求することがどういう結果を招くのか。つい最近、この社会はそれを見てしまったのではなかったのか。

◎引用元はLiteraのコチラ:http://lite-ra.com/2014/10/post-508.html
○結びの部分を追加コピー:


哲学者カントは『学部の争い』(1798年)で大学論を展開した。大学部の学部には、神学部、法学部、医学部上級学部とその基礎をなす哲学部に分類される。上級学部は社会的有用性を持ち国家と結びついているが、国家から自由な哲学部こそが学問の真理性を判断することができると述べている。


 時の政権の意志と経済的利害だけで大学が統制され、とりわけ人文社会科学という人間や社会のあり方を考察する学問がないがしろにすることは、知的営為そのものの否定である。

 
「大学改革」の名の下に進行する文化破壊と知的荒廃の様をもっと多くのひとびとが知る必要があるだろう。
(村田哲志)