オランダ国王のスピーチ


先月末の10月29日、国賓として来日されていたオランダのウィレム・アレクサンダー国王が、天皇・皇后両陛下主催の宮中晩餐会でスピーチをされました。新聞でその内容まで紹介されたのか見逃していましたが、この日曜日(11月の30日)の日経新聞の「日曜に考える」というコラムが、取り上げています。国王に随行してきた記者に国王のスピーチの2日後、感想を求められたそうです。オランダのメディアは不満だった。スピーチの当日の29日、記者たちは深夜までテレビニュースなどでスピーチの反応を探っていた。しかし、報道のほとんどは11年ぶりに宮中晩さん会に出席した雅子さまの話題に集中していた。ある記者は「日本との戦争に触れた国王のスピーチに、日本は無反応だった」と本国に記事を送ったそうです。
そのスピーチを探してみました。(全文はコチラで:http://digital.asahi.com/articles/ASGBW628KGBWUTIL04B.html?iref=reca
天皇陛下のスピーチの一部:

 我が国は17世紀の半ば以降、鎖国政策を行い、日本人の海外渡航、外国人の日本滞在が禁止されましたが、貴国の商館は長崎の出島に移され、貴国の人々はそこに滞在することが認められました。したがって我が国が19世紀半ば鎖国政策をやめて開国するまで、長崎は貴国を通して欧州へ開かれた我が国唯一の窓でありました。人々は長崎に赴いてオランダ語を学んだり、オランダ商館長が江戸に将軍を訪問する機会に、貴国の人々から世界情勢や医学など欧州の知識を学びました。後には江戸の芝蘭(しらん)堂、長崎の鳴滝(なるたき)塾、大阪の適塾など日本各地でオランダ語を通して様々な分野の学問が学ばれ、19世紀から20世紀にかけて活躍し、その後の日本の発展を支えた優秀な人材を輩出しました。鎖国が解かれた後の我が国の発展にも、貴国の人々の寄与したところは多く、皇后と私は、特に日本の水資源の管理に力を尽くしたオランダ人、デ・レイケの功績に関心を抱き、日蘭交流400周年を前に彼の伝記が出版されたことを喜び合いました。


 一方、西周津田真道など、江戸幕府が初めて送り出した留学生が学んだライデン大学には、1855年、欧州で初めての日本学科が設置され、日本に対する関心を高める窓口となりました。


 このように長きにわたって培われた両国間の友好関係が、先の戦争によって損なわれたことは、誠に不幸なことであり、私どもはこれを記憶から消し去ることなく、これからの二国間の親善に更なる心を尽くしていきたいと願っています。

芭蕉の句で始まり家康の言葉で終わるオランダ国王のスピーチからです:


 かつて出島は私たちが互いの言葉を習得し、科学や文化を学ぶ場所でした。オランダ語の書物を通じて西洋の学問を修めた蘭学者たちは重要な役割を果たしました。実際、そのうちの一人で、オランダ語に通じた福沢諭吉の肖像は貴国の一万円紙幣に使用されています。日本が長らく、小さなオランダという窓を通して、西洋を眺めていたことを思うとき、私は深い感慨を覚えます。
 


 天皇陛下、貴国の開国以降も、蘭日両国は緊密であり続けました。医科学や水利工学分野はその一例であり、オランダ人土木水利技師、ヨハニス・デ・レイケの名前は今日に至るまで語り継がれています。しかし、貴国には、当時既に水利工学の長い伝統がありました。出島は、その最たるものと言えましょう。海に浮かぶ人工島は、杭の上に築かれ、幾多の台風をしのいできました。


 我々は先人の歴史を決して忘れません。彼らの勤勉さ、創造性、功績そして互いの交流が土台となり、今日が築かれました。彼らの歴史に「終わり」はありません。我々は祖先の残した美しい遺産と苦しみの遺産のそのいずれをも引き継いでいます


 第2次世界大戦で我が国の民間人や兵士が体験したことを我々は忘れません。忘れることはできません。戦争の傷痕は、今なお、多くの人々の人生に影を落としており、犠牲者の悲しみは今も続いています。捕らえられ、労働を強いられ、誇りを傷つけられた記憶が、多くの人々の生活に傷痕を残しました。日本の国民の皆様もまた、先の大戦において、とりわけ戦闘が苛烈(かれつ)さを増した終戦間近、大変な苦しみを経験されました。


 

 和解の土台となるのは互いに背負ってきた苦痛を認識することです。両国の多くの国民が和解の実現に向け全力を尽くしてきました。こうして双方の間に新しい信頼関係が生まれました。

 



 オランダと日本にとって、少子高齢化社会の中でいかに繁栄と生活の質を確保するかは共通の課題です。長期的に持続可能な成長を実現させるためには知力と決意が不可欠です、必要とされている改革は容易なものではありません。もしもこの分野で互いに影響を与え合える二カ国があるならば、それは、日本と我が国をおいてほかにないでしょう。両国で活躍中のデザイナー、研究者、芸術家、新進気鋭の起業家の果たす力強い役割に鑑みれば、我々は共に多くのことを達成できるでしょう。今回の訪日により、こうした原動力がより強まることを願ってやみません。


<中略>

 
 同じことが国際法秩序、平和と安全保障に対する共通の責任についても言えます。日本は、平和を希求しており、より積極的な貢献によって、世界で平和を育むための最適な方法を検討しています。オランダは貴国のそうした取り組みを評価しており、2004年から2006年までのイラクのアル・ムタナ地方で日本が果たした人道的役割は我々の記憶に新しいものです。イラクでは、オランダ国防軍と日本の自衛隊が緊密な協力のもと活動を展開しました。<後略>

◎日経のこのコラムは論説委員の小林省太という署名入りです。次のようなオランダの記者の言葉を紹介しています。「国王の発言に国内の戦争体験者の意向が反映していることは間違いない。しかし、日本が戦争について曖昧な態度をとり続けているという意識は我々にもある。侵略戦争の歴史を認めたうえで、生まれ変わった平和国家としての歩みに誇りを持つという当たり前の発想をしないのは、なぜか不思議に映る」。そして、「戦後70年を迎える来年は、否応なしに全世界が第2次大戦に向き合うことになる。」「日本はどんなメッセージを出せばいいのか。それは今後の国際社会でのイメージを大きく左右する。」と結んでいます。

◎戦争の記憶…日本人の私たち、戦争の被害者としての記憶に力点が置かれ、加害者としての戦争についてあまり知らないことに気づきます。日本人記者たちを含むメディア関係者が国王の発言に敏感に反応できないで、皇太子妃雅子さまの動向に終始したというのは、国民である日本の私たちの歴史認識のあいまいさを表していると思います。戦争中近隣地域諸国に日本軍が侵略して、何をしてきたのか知ること自体が自虐史観と言って攻撃を受けるくらいです。事実を知らないでは反省もできない。老いも若きも、”水に流すのが得意”と自慢する厚顔無恥な嫌な日本人になりかねない…と反省。
〇「日本軍の慰安所慰安婦 >オランダ」http://www.awf.or.jp/1/netherlands.html
〇「アジア女性基金の償い事業 >各国・地域における事業内容−オランダ」http://www.awf.or.jp/3/netherlands-00.html
(写真は30日、坊の島で。夏の花カンナがまだ咲いていたり、霜月最後の日でした)