2月のお茶のお稽古(高取焼・小石原焼・初午茶碗)


昨日は午前中が久しぶりのヨーガ、午後からお茶。
二つ重なる日が、年に一度ほどあります。
午前中はお天気だったのに、午後から小雨が。
傘を持って出ましたが、帰りの4時頃には吹き降りの雨でした。
私がお二人より少し早目に到着。玄関に入る前に信楽焼のカエルを写してみました。
この日は、2人が炉点て、1人が立礼式で点てました。
[お軸の「弄花香満衣」は、セットになる言葉が別にあると先生が言われたので、調べたら分りました。
水月在手   弄花香満衣
読み方は、「水を掬(すく)えば月手に在り、花を弄(ろう)すれば香り衣に満つ
意味は、「(澄んだ川の)水を手で掬えば月がその中に(映って)在るし、花にふれればその香りが衣に満ちあふれるようだ
「唐時代の詩人が書いた五言律詩の一句」なのだそうです。(詳しくは「風月庵だより」さんのコチラで:http://blog.goo.ne.jp/fugetu3483/e/32ca7df4366dbc533d84f7a64468f57b

香合は中国製の梅に小鳥。
日本人ならこの小鳥はウグイスですが、
中国では小禽で何という鳥に当たるのか?


お棚が艶々とした変わり棚。透かし模様が入った木屋町と呼ばれるものです。[京都の木屋町にあった三井家の別邸の普請のとき碌々斎が好んだもので、町名をとって木屋町と名づけられた.]
この透かしは格狭間(こうざま)透かしと言って年中使えますが、梅の模様の透かしが入っていると2月にしか使えません。
棚の真中に置いてある棗(なつめ)は、棗型ではなくて湯飲み茶碗?型かな。蓋が二枚あって、この日は梅を描いた蓋。平茶器といって棗とは少し扱い方も違います。袱紗で拭く時も、「この字」ではなくて「二の字」で拭きます。
下の段に置いてある水差しは、ツヤツヤ光る茶色と白の蓋つき壺。九州の高取焼だそうです。

高取焼(たかとりやき)は、元々、福岡県直方市にある鷹取山の麓にて焼かれており、朝鮮出兵の際に黒田長政が陶工、八山(日本名・八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。開窯は1600年と言われている。窯場には永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯があり、これらを「古高取」と呼んでいる。


江戸時代には黒田藩の御用窯として繁栄、元和年間には唐津からの陶工を招き、技術を向上させている。そして寛永年間に入ると、2代藩主黒田忠之小堀政一遠州)と交流を深め、遠州好みの茶器を多く焼かせた。それが縁で、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶産地として名を高めることとなった。この頃の中心は白旗山窯で、遠州好みの瀟洒な茶器は「遠州高取」と呼ばれた。


その後、八山の孫の八郎が高取焼第5窯として小石原で小石原焼きを始め(小石原高取)、より繊細な作品が多く焼かれた。以後は、福岡の大鋸谷に移転(御庭高取)、18世紀には「東皿山」と「西皿山」に分けられ、細分化されていった。今日では数カ所の窯元が至る所に残っており、廃窯した窯場にも再び火が灯ったりと、再興している。(Wikipediaより)

特徴として、「今日の作風は小石原高取以後の技法で、使用する釉薬は多い」とあります、それでツルツルと光っていたんですね。
この日は、私は二番手に回りました。主菓子は今年最後の花びら餅。蓋を開けると、牛蒡が良い香りを放っています。寒い日だからと、アツアツのお薄茶に甘いお菓子が美味しいです。

水屋に筒形のお茶碗が出してあるので筒形で、と先生に言われて、縦じまのお茶碗と梅の模様の、どちらも筒形のお茶碗を選びました。
ストライプの艶やかなお茶碗が、上の説明に出てくる小石原焼(こいしはらやき)とか。高取焼がルーツの焼き物ですから、同じく、黒田官兵衛というか長政ゆかりの焼き物ですね。
筒形は深いので布巾で拭く時は、先に底を拭き、布巾を抜く時の作法も少し違います。手の添え方も、指を揃えていては落とすので、親指を割って斜め上からつかんでも良いのだとか。茶筅で解く時もお茶碗を少し斜めに傾けます。注ぐお湯の量も見えないので普段からのカンが頼りです。

Naさんの時に使われたお茶碗はどちらも梅の絵が描かれたお茶碗でした。

立礼式の時に使われた水差しは古いもので明治か大正、どんなに新しくても昭和の初めのもの。先生のお父様のものだったとか(上の写真の右)。

最後にNさんが先生に一服.の時、先生が取り出されたのが、楽焼の初午茶碗
穴が開いて無ければ馬上杯ですが、このギボウシのような宝珠形の穴があいているので、初午茶碗。
では、初午とは? Wikipediaによると:
初午(はつうま)は、2月の最初の午の日。稲荷社の祭であり、初午祭に初午詣(福詣)する参詣者が訪れ、これを雑節の一つとすることがある。旧暦で行う事もあり、その場合は3月となる事もある。」「稲荷社の本社である伏見稲荷神社のご祭神・宇迦御霊神が伊奈利山へ降りた日が和銅4年2月11日(711年3月4日。2月9日(3月2日)説もある)であったとされ、この日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。」