「グラナダは無為の町であり、瞑想と空想のための町である」。グラナダの沃野に生まれ、グラナダの瞑想の時に詩を刻み、グラナダの銃弾に倒れた詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカは、この町の特質をこのように語った。(「地球の歩き方」より)
(写真は、前日25日、ヘネラリフェから、庭園越しのアルハンブラ宮殿)
旅行のガイド本を読んでいると、ロルカの言葉が出てきたので調べてみたら、「マドリードの広場にはロルカの像が建てられている。2006年、グラナダ空港はロルカの名を関したフェデリコ・ガルシア・ロルカ・グラナダ=ハエン空港が正式名称となった」そうです。バルセロナへはグラナダ空港から飛行機で移動しましたがロルカの名がつく空港だと初めて知りました。
「1492年=いよッ国が見えたよコロンブス」は、世界史の授業で年号に引掛けて覚えたもので、これのおかげでコロンブスの新大陸発見の年号は今でも覚えています。その年号が同じく世界史の授業で習ったレコンキスタ(再征服)を指すとはスペインへ行くことになって分りました。
コルドバのレコンキスタは1236年、それより南のグラナダでは1492年。南へ南へと追いやられていったという事です。
グラナダは、シエラネバダ山脈の麓(ふもと)、ベガと呼ばれる肥沃な平野に位置する。その起源はローマ時代に遡る。1236年にコルドバがキリスト教徒に奪回されてからは、ナスル朝グラナダ王国の首都となり、イベリア半島におけるイスラム教の最後の砦として繁栄を極めた。そして、1492年のグラナダ陥落まで2世紀半にわたり、レコンキスタの暴風にさらされながら、終末の宴ともいうべきアルハンブラ宮殿を築き、そこに華燭の炎を燃え上がらせた。
1492年は、レコンキスタ完了の年であるとともに、グラナダの征服者イサベル女王の援助を受けたコロンブスが、新大陸に到達した年でもある。スペインが、世界制覇に向けて大海原に乗り出していく大航海時代の幕開けであった。
スペイン統一後、イスラム教徒はグラナダの町から追放され、モスクは接収されて教会となるが、アラブ様式は破壊されることなくキリスト教文化に接ぎ木された。グラナダの歴史が表舞台から姿を消した後も、アラブの余韻はひっそりと息づき、この町の陰影深い精神性を形作る。
コルドバのレコンキスタは、林立するイスラムのアーチを一部取り払って、その真ん中に大理石のキリスト教の大聖堂を据えた、ある種衝撃的で恐ろしい形で「再征服」の本質を伝えるものですが、アルハンブラは確かにもっと優美で柔らかなレコンキスタです。再征服の完成がもたらした余裕なのかもしれません。
←というのも、宮殿敷地内を歩いていて異質に感じた建物が、レコンキスタ後の1526年、カール(カルロス)5世が新婚旅行で宮殿内に宿泊した時に建設を決めた宮殿だということです。現在は博物館や美術館になっていて、修復中という事で中には入らなかったのですが、ナスル朝の宮殿群を破壊することなく建てられているようです。また、教会もありますが、独立した建物として建てられていました。
さて、修復中のカルロス5世の宮殿横の入り口から入ると天井の低い薄暗い広場のようなところに。
ナスル朝宮殿(Palasios Nazaries)
ナスル朝初代王アル・アフマール(在位1232−73年)は、仇敵カスティーリヤ王国に服属して外交を安定させ、商工業の発展に力を注ぎ、経済が潤うと、城内に王宮を築城。初代王没後も歴代王によって建設が進められ、7代ユースフ1世(在位1333−54年)に完成。城内には2000人以上が暮らし、市場、モスク、住宅街が整備され、貴族の宮殿は7つを数えた。
メスアールの中庭
大理石のファサードが、いよいよ宮殿の中心部であるコマレス宮へのエントランス。
アラヤネスの中庭
コマレス宮の塔を水に写すこの中庭。
私は反対側の屋根が平行になっていないのに気を取られて肝心の写真を撮っていません。
普通、真ん中に立って左右対称の美しい庭と建物を最初に写すべきなんでしょうに・・・・
仕方なく、ガイドブックの写真を貼り付けです(↑)。
コマレス宮の大使の間
ライオン宮(Leones)
12頭のライオンの噴水がある中庭。王族のプライベートな空間で、装飾はより繊細に。
二姉妹の間(Sala de Lindaraja)は、ライオン宮を囲む建物の中で一番古い建物。
奥はリンタラハのバルコニー(Mirador de Lindaraja)。
しばし、天井を眺めて感嘆の声を挙げるのみ。鍾乳石のような細かな飾りが素晴らしい。
壁を装飾するタイルと細密な彫刻が施された大理石のサンプルが置いてあった。
幻想世界の終焉は、1492年に訪れた。最早レコンキスタの勢いに抗しきれないと判断した最後の王ボアブディル(在位1482−92年)は、カトリック女王イサベルに城を明け渡し、臣下と共に北アフリカに逃れた。
その後18世紀の王位継承戦争やナポレオン戦争を経て、アルハンブラは荒れ果ててしまった。再び世界の注目を浴び始めたのは、19世紀のアメリカ人作家ワシントン・アービングの「アルハンブラ物語」によってであった。
そのワシントン・アービングが執筆したという部屋には
ドアの上にプレートが掲げられていた(ピント外れの写真)。
見晴らしのきくアーチの上の通路からアルバイシンの方角を見る。
みどりの木立の小さな中庭にホッとしてみんなで一休み。
これが、アルハンブラ宮殿か〜・・・・
コルドバのメスキータで、修復中という囲いに覆われた隙間から覗き見たイスラムの精密な華のようなタイルは、ここアルハンブラでは、集積する鍾乳石の飾りにまで進化して降り注ぐようでした。ここで、メスキータの後でアルハンブラで良かったと誰かが。確かに、ここには圧倒されるようなイスラム建築の美しさがあります。
バルタル庭園(Jardines de Partal)
外に出ると、今訪ねていた宮殿の建物の裏側になり、バルタル庭園です。貴婦人の塔と言われる建物です。
白い塔はサンタ・マリア教会の塔のようです。周りは花園。ゆっくりベンチに腰掛けて一休みです。
あの八角形の可愛い屋根は、
きっと、二姉妹の部屋のあの鍾乳石装飾のあった部屋の屋根に違いない。
外から見るとこんな風なんだ〜
ここは職人たちも宮殿敷地内に住み込んでいたそうですから
住み込みの職人たちが精魂込めてあの複雑なタイル装飾や彫刻タイルの組み合わせを遣っていたのでしょう。
思わぬハプニングで二度もアルハンブラ宮殿を訪ねた私たち、酔いを醒ますかのように、アルハンブラの日差しを避けて風に当たっていました。
付記:
←アルハンブラ宮殿内から見たアルバイシン
「アルハンブラ宮殿を一望する丘」として行きたかったのですが、行けず。代わりにガイドブックの説明を:
11世紀頃にイスラム教徒によって築かれた、グラナダ最古の町なみが残る地区。キリスト教徒によるグラナダ陥落の際(1236年)には、アベン・ウメヤに指揮されたモーロ人の抵抗の砦となり、白壁と石畳はおびただしい流血に染められたという。敵の侵入を防ぐ城郭都市として造られたため、道は迷路のように入り組み、方向感覚を失わせる。
ここの展望台からは、シェラネバダ山脈を背景にしたアルハンブラ宮殿が見えるそうです。