スペイン旅行(4.バルセロナー6)フラメンコ


6月30日(火)の最終日、カタルーニャ音楽堂ピカソ美術館の後、ランチ。その後、地下鉄に乗って、ホテルに戻ったのが4時半。

夜のフラメンコは、ランブラス通りの”EL CORDOBES”. 8時半からのディナーとショーの予約を日本で取って、夫たちは楽しみにしていたはず。
7時45分までの間に、シャワーを済ませ、明日は帰国日になるので、パッキングの下準備も。帰りはタクシーの方が安全ということで、地下鉄の回数券も使い切って、ランブラスへ。
右上の写真は、ホテルに近い地下鉄の駅のエスカレーターの降り口です。
最初の日、ここで、スリにあいました。被害はなかったものの、大都会バルセロナを自覚した場所です。
ところで、遠くに見える建物、最初の日から不思議だと思っていました。建物の上に大きな卵が乗っていて青い模様がついています。これが、どうも、闘牛場だそうです。そういえば、闘牛は予定に入っていなかった。こんなに近くに闘牛場があるのなら…でした。この駅から、公園を通りぬけて、何度ホテルへ通ったことでしょう。バスケットボールをしている人たちもいます。

ランブラス通り(Las Ramblas)カタルーニャ広場(Placa de Catalunya)
プラタナスの並木が続く、旧市街の目抜き通り。街の中心カタルーニャ広場と、港の中心コロンブスの塔を結んでいるそうです。19世紀までは、ランブラス通りの東西に広がるこの地域が、城壁に囲まれた都市だったとか。それにしても道路の真中に大きな並木が走って両脇にはパラソルと椅子が並んでいて、大勢の人がゾロゾロ、ブラブラ歩いている光景は見ものです。8時過ぎでこの明るさです。フラメンコ会場のコルドベスの前にも人が並んでいるのが見えました。
 
私たちはフラメンコショーの前にディナーがついています。二つの列に分かれて、ディナー組は二階に上がることに。踊り場に、リヤドロのフラメンコを踊る陶器の人形が置いてありました。アーチ状の窓から外を見ると、ランブラス通りの夜8時台の様子です。

1時間の食事を終えて、いよいよ、上の階にあるフラメンコショーの会場へ。
舞台は目と鼻の先。
私たちは脇の左手に、座席指定で座りました。
舞台の上のアーチの処から楽器の奏者や歌手、踊り手が出入りします。
写真は禁止、最後の5分間だけ撮影許可、とのこと。
真っ暗になって、始まりました。
ギターと、ハスキーな地声で唸る歌と、そして激しく細かくリズムを刻む男性ダンサーの靴音、身体をうねらせ、そらせ、舞い踊る女性ダンサー、手にしたカスタネットが狂おしくリズムを刻みます。


フラメンコの起源は、よくわかっていないが、
確かなのは、スペイン南部アンダルシア生まれである。
フェニキア、ローマ、西ゴート、ユダヤ、アラブ…
その中でも特に約500年にわたってアンダルシアを支配した
アラブの影響は大きく、掛け声の「オレー」は「アラー」に由来するとも言われている。



またフラメンコの誕生に重要な役割を果たしたのは、
15世紀にアンダルシアにやって来たロマ族たちだ。
インド起源とされる放浪の民、ロマ族がこの地にあった歌や踊りを彼ら流にアレンジしたのがフラメンコのもとになったと言われている。


19世紀中ごろには、仲間内でやっていた歌と踊りを、一般の人や外国人旅行者が興味を持ち、フラメンコを楽しむカフェ・カンタンテという酒場が現われた。これが、現在タブラオと呼ばれる、フラメンコのライブハウスのいわば前身であり、やがて劇場での公演も行われるようになり、フラメンコの形は次第に現在のように整えられていった。(「地球の歩き方」より)

ロマと言えば、シェラネバダ山脈のアルプハラ地方めぐりの車でロマの人たちの花自動車と馬の一行に遭遇しました。かつてジプシーと呼んでいましたが、エジプト人という言葉から来ているという説を聞いたこともあります。歌や踊り、衣装などに確かに共通するものがありますね。


すっかり魅了されて、すご〜い!!
大興奮の大拍手でフラメンコは終わりました。
咽が乾いて、私は一人づつに配られていたシャンパンを一息。しばし、う〜〜んという感じでした。
F氏が歌詞の内容が解ったらもっと理解ができるのにと。皆、何とも悩ましい?表情ですもんね。訴えることがあるんでしょうが…言葉が解りません。
それでも、男女が踊り刻む激しい高速リズムとギターと歌声のうねるような叫びは、東洋から来た私たちの胸も掻き立てます。