「未来への種をまく」


◎2月は父のことでバタバタしていて、2月に届いていた豊能障害者労働センターの封筒を開けずにいました。その機関紙「積木」の入った茶封筒をつい最近開けてみました。3・11から5年、というので、先週あたりからテレビでも特集番組が目立ちます。
「積木」2月号のトップバッターの八幡隆司氏(元箕面市議で「ゆめ風基金」理事で、仙台・郡山・盛岡に被災地障害者支援センターを立ち上げた)も、「東日本大震災から5年」という文章の最初、「五年は節目なのか?」でこう書いておられます:

 早いもので東日本大震災の発生からもう五年が過ぎてしまいました。しかし最近五年の節目を迎えるにあたって新聞、テレビなどの取材を多く受けるようになりましたが、この「節目」という言葉が僕にはピンとこないのです。なぜなら当初47万人いた避難者が今年一月時点で18万人まで減ったとはいえ、まだ18万人ほどの避難者が厳しい生活を強いられていますその半数が今もなお仮設住宅に暮らす人たちであり、残りの半数は原発事故により住み慣れた地域を離れ暮らす人たちです
 阪神大震災では五年で仮設住宅が解消となり、これは一つの節目となりましたが、東日本大震災仮設住宅は順調に進んでもあと三年は解消されないということです

◎さて、ご紹介するのは、豊能障害者労働センターのスタッフの一人田岡ひろみさんが、鈴木絹江さんに昨年12月26日にインタビューしたという記事です。

  ❉❉❉❉ ❉❉❉❉ ❉❉❉❉ ❉❉❉❉ ❉❉❉❉ ❉❉❉❉ 
  未来への種を撒く  鈴木 絹江

<前略>

 よく3・11近くなると「あれから何年過ぎた、何カ月過ぎた」とかいう形で話を向けられることが多いのですが、私の中では、あの3・11以降何も変わってないんですよね。3・11がずぅーっと続いている、という気持ち。他の人にとっては一年ずつが区切りかも知れないけれど、私にとっては何の区切りもついていないし何も終わっていないという思いです。それがやはり震災にあった人と合わなかった人との違いとしてあるのかもしれないですね。でも違いがあるということが悪いということではなくて、推し量ってわかることと推し量っても分からないことがあるということをお互いがきちんと理解し合うことが大事だと思うのです。すべて寄り添って、あの原発事故を体験した人と同じ気持ちにならなければいけないということはないと思うんですよね。むしろ離れているからこそ、外側から見てあの事故のことや国のあり方、避難政策なんかについて冷静に判断できるという面があるし、発言できることがあると思います。そして体験した人は内側からそれを通じて見えることを発信していく、という形でお互いの立場からの意見を出しあることが大切で、必ずしも同じ立場にたたなくてもいいんじゃないかな。

 3・11を経験した人は、一生忘れない思いでそれがずっと続いて、私と同じように区切りがついていない人が多いかもしれません。また、福島から避難してきたことを隠して生活したいという人もいるかもしれないけれど、それは表面上隠しているだけで心の中にはずっとある、そのことがあって今ここにいるわけだから。解決されない問題として開かずの間に入れられているのではないでしょうか。

 私は、原発事故後、福島から避難することはあまり迷わなかったんです。というのは、チェルノブイリの時に反原発の集会にも参加したことがありますし、なんといっても障害者運動に関わっていたので、政府が必ずしも当事者の立場に立って政策を進めるとは限らないということをずっと私は知っていた、それは大きなことでした。障害を持つ人が地域の中で生きていくことも、30年前から見れば少しずつはよくなり、制度も進んできていますけれども、根本的なところで一般の人と同じ対等な人間として認めているかというとそうではないです。やはり福祉というと現場も「可哀そうな人」「面倒見てあげなくちゃならない人」というところから離れてないですよね。人権というところで対等に生きるためのスタートラインを一緒にするためのサポートが必要なんだという考え方にはなってない。「差別解消法」も実は2001年から私たちはADA法(※)のような「差別禁止法」を作れという運動を続けていたんですが、これには厚労省はすごく抵抗し「人権」という言葉は一番嫌っていました。

※ADA法…障害を持つアメリカ人法(Americans with Disabilities Act of 1990)。1990年に制定された連邦法。アメリカ障害者法とも訳される。障害による差別を禁止する適用範囲の広い公民権法の一つであり、大きく四つの柱(雇用、公共サービス、公共施設での取扱い、電話通信)からなる。

 福島の原発事故についても、年間1ミリシーベルトという被曝限度量が法律で定められているにもかかわらず、福島県の汚染地域は20ミリシーベルトまでOK、というふうに簡単に基準値が引き上げられ、今までの法律は何だったのかと。福島県民だけ例外? それは基本的人権に反しているんじゃないですか?という、この質問には答えないわけです。決して立場の弱い人、貧しい人、障がい者とか今回の原発事故による避難者とか、そういう人の立場にスポットを当てているのではなくて、国はどうやって存続するかと。だからそういう人たちの生活なんかは「お余りの政策」であり、健康な人たちの社会がちゃんとまわってそのお余りの部分で生かしてあげましょう、という「生かさず殺さずの政策」なんです。ずっと。それは今も昔も変わらない。これまで障がい者のことで何度も国会前までお百度参りしていろいろ訴えてきたけれど、そのことは変わらない。それと同じように福島の人たちのことも他の地域の人たちの経済がうまくまわるように国のお金を注いで箱ものいっぱい作って、いかにも復興を進めているように見せかけてそのお余りのところで避難民を救う、だけど今はまだ国は責任を認めていないですからね

 「水俣病」を見ても「イタイイタイ病」を見ても同じように、この問題は放射能半減期よりも早く解決するかなどうかなって、(何の半減期?)セシウムなら30年、それより早く解決したらいいよね…と私の中ではすごく絶望的な思いを持っているんです。でも負け戦であっても、絶望的であってもどういうふうに次の世代に何を残していくかというところでは、やはりきちんと物を言っていかなくてはならない、と思っています。しかし、自分が生きている間に国や東電がこの原発事故のことを謝ることはないんだろうなと。この事実が私の心に浮かんだとき、とても悔しかった。国や東電を許せないという激しい怒りと自分の中に湧き出た失望感も許せなかったのです

 「青い芝の会」の人たちが、「自分たちはあってはならない存在」として社会から扱われてきたことに対して闘ってきたように、やはりこの世に生まれたからには誰しも祝福を受け、大切にされて生きる権利があると思います。この世の中には指一本自分で動かせない人から100メートルを10秒切って走る人もいるんです。オリンピックみたいなところにお金がどんどん流れていますけど、ベッドの上で指一本動かせない人の生活も同じだけの価値があると思えるようなサポートのあり方、「共に生きる」という考え方が必要だと思うんですね。そこが出来ていないことが問題なのであってそこを変えていけば、ベッドの上の人も100メートルを10秒切って走ることはなくても、生きてて良かった、生まれてきて良かったという最低限、人として人生を生きるための同じスタートラインに立つことができると思うのです。

 福島の問題も同じように「人」として生きるためにどういうことが必要かということを社会全体が考えていく必要があると思います

(参考文献)「放射能に追われたカナリア 災害と障害者の避難」 
      著・鈴木絹江 編・ロシナンテ社 発行・(株)解放出版社

◎昨夜のNEWS23福島第一原発事故現場から65キロの農地で農業をしていた60代の男性が事故後、自殺をしました。その息子は、残された母と共に米を作ってきました。5年は節目じゃない、ただ5年の時が流れただけと言い、悲しい怒りの叫びです:
  「どこがクリーンで安全なエネルギーなんだ! バカか、この国は!
    そして、声を挙げていかなければ、それが、宿題だとも…