4月8日(金)、いよいよ吉野山の桜を見に出かけます。前日、民宿の女将さんにお願いして、7時には朝食。7時半に車2台で、いざ吉野山へ出発。
混むことは分かっているので、時間差で、ゆっくりできる早朝を狙うことに。みんな、義弟が考えてくれたことです。昨日の嵐が一夜明けて、晴れ間が出る朝に。如意輪寺の駐車場に車を置いて、歩き出すことに。山沿いのハイキングコースのような道を歩いて、時々見晴らしの良い場所に出ると、霞みか雲か、はたまた桜か…と云う景色が見えて、わぁ〜と歓声を挙げます。ところどころに見える濃い桃色はミツバツツジの花です。
男性二人が、ブ〜ンという音がする、と云い出して、クマンバチの用心をするようにと。私には聞こえなかったのですが、歩きながら”音がする、音がする”と。正体がわかりました。蜂より大きなドローンでした。空撮をしているようです。山道から、大きな道に出たところで、飛ばしていた男性が、ドローンを回収していました。どんな映像が撮れたのか、のぞいたら、"もう電源が切れて、今は見れませんよ"、とアタッシュケースのようなケースにドローンを納め乍ら。残念。なるほど、便利な世の中になったものです。きっと素晴らしい映像が撮れたことでしょう。
車が通る広い道に出てから、"上の千本"の中ほどまで歩いて行くと、眼下のはるか向こうに大屋根の蔵王堂が見えました。(下の写真の左の上の方、民家の並んだ奥に黒く見える大屋根が蔵王堂。あそこまで歩くことに)
"下の千本"は、昨日の雨でほとんどの花弁が散ってしまっています。"上の千本"あたりが満開、といっても吉野山は、ソメイヨシノとは違って、”シロヤマザクラ”なので葉と花が同時に出て華やかさはソメイヨシノほどではありませんし、花の色も木によって色合い濃淡さまざま。それが遠目にはボカシ模様の独特の景色になります。そして”奥の千本”あたりはこれからが満開です。
時間を見ると、まだ10時。
お昼を済ませて解散の予定なのですが、お昼にもまだ早いということで、下りながら蔵王堂へ行こうということに。
2キロほどの道のりですが、急坂を下りながら、帰りも同じ道ならこの角度はきついな〜なんて思ってしまうくらいです.
途中、桜の広場のようなところにお茶屋さんをみつけ、桜餅を戴いてコーヒーブレイク。
赤い毛氈を敷いた腰掛に座ることに。
辺り一面、昨日の嵐に叩かれた花びらが落ちていました。
さて、登りの人たちが増えてきているのが分かります。だんだん繁華街の様な人出になって、門前町の賑わいです。両側の土産物屋さんを覗きながら下りに下って、いよいよあの大屋根の国宝蔵王堂です。私たちは麓から登ってではなく下ってでしたので、反対側にある国宝の仁王門はくぐらず階段で本堂に向かいます。
正式には総本山金峯山寺(きんぷせんじ)といい、「金峯山(きんぷせん)とは、奈良県の吉野山から大峰山に至る一帯を指し、古く飛鳥時代から聖地として知られ、白鳳年間(7世紀後半)、修験道を始めた役行者が開祖」。箕面ゆかりの役行者、あの役小角(えんのおずぬ)さんが、ここでお堂を建てて、山桜の木に金剛蔵王権現を彫刻したそうです。
境内は観光客で一杯。何やら着物姿や正装の方たちがいて、お祭りのようなにぎやかさ。そういえば、4月8日はお釈迦様の誕生日で花まつりの日、という事を思い出しました。なぜ、そんなことを思い出したかというと、私は箕面へ引っ越してくる前の岡町で、お寺の幼稚園に通っていました。その幼稚園で花まつりの行事があって、本物の小ゾウ(動物の)を使った花まつりの行事があったはずと、これは、今となっては確かめようがなくて、本当だったのか、私の妄想なのか、定かではないのですが、甘茶を振る舞う行事をかすかに覚えているのです。
たまたまそのお釈迦様の誕生日の灌仏会(花まつり)に当たって、本堂の中でもお参りが行われていました。拝観料を払って、パンフレットとお札と靴を入れる袋を戴いて堂内に入ることに。行列が出来ていて順番に並んで三体ならぶご本尊の目の前、障子に囲まれたブースに入ってお参りをすることになりました。夫が「懺悔する場所だそうだよ」と言ってましたが、本当かどうか。私は、青く塗られた迫力のある金剛蔵王権現の釈迦如来像の真ん前でお顔を見つめて頭を下げてきました。(下の写真、2枚目、山の真中の白い処が『下、中、上、奥の千本桜』です)
下り乍ら、食事の場所を探して、早めに一軒の土産物屋さんに入り、谷越しに満開の”中・上の千本”が見える窓際のイスとテーブル席に座ることに。そこでもらった地図を見ると、あの急坂を登らなくても如意輪寺の駐車場に戻れそうです。お義姉さんは、一人になってから、家を売ってマンションに引っ越しました。買い物や病院に便利、かつ、その内、二人でも住める広さのマンション住まいで、今は、何を食べても、何をしても全くの自由、私ほど幸せな者がいるかしらと思うほどとか。それ程の苦労をしてこられたのをみんな知っているので、みんなで良かったな〜と思います。
食事を終わって、お土産を買って、私は、常備薬の陀羅尼助丸(ダラニスケガン)を求めることに。胃の3分の2を切除してから、脂っこいものを避けたり、量的にも一度に沢山は食べられず、外出先での食事は出来るだけ避けてきたのですが、それでも、やむなく食べたりしたとき、この漢方薬で随分助かりました。それ以来、海外旅行にも持参、チョットしたおまじない?的な働きもあったような。次男が同居していた時も、二日酔いにすごく効くと言ってたこともありました。それこそ役行者さんの頃からのお薬ではないかと思います。
無事、手に入れて、下りながら、かなりの道のり。「年を取ってからは吉野山は来られないですね〜」なんて、とても80歳には見えないお義姉さんに。お義姉さんは、健康第一で毎日30分以上歩くことにしていると言われるだけあって足取りも軽いようです。私は、最近、万歩計を付けているのですが、歩いたと思っても5000歩、普段はせいぜい2,3000歩。1万歩を超えることは無理と思っていましたが、この日は、1万2000歩を超えました。
金峯山寺から如意輪寺までは、谷を一つ越えるので、下りから一転上り坂に、急な階段を登れば、如意輪寺の境内です。桜の花を見ながら歩く足元にはツヤツヤとした葉のシャガがビッシリ。花の時期にはまだ少し早く、咲いているのは日当たりの良い場所で1,2輪でした。
如意輪寺はWikipediaによると:
平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。
正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。
芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。
◎駐車場に着いた頃には、続々と観光バスが押し寄せ、アナウンスでは、トラッピクスの観光バスが、福岡からの観光客の呼び出しをしていました。救急車やパトカーが走ったり、事故か急病人が出たのか、大変な混雑になってきそうです。私たちは、これで観光も終えて、それぞれが帰路に着くことに。義弟たちは、義姉の大津のマンションに寄って、加賀市へ向かうことに。私たちは、そのまま大阪へ。ありがとう、楽しかった、またね〜で別れることに。吉野川沿いを走って大阪へ一路……ところが、すぐ右手に桜の森が見えて…(つづく)
<追記>
・SPYBOYさんがコメント欄で書いておられた、桜の世話について、丁度ピッタリの新聞記事(読売3/27)を残していましたので、引用してみます。金峯山寺の五條良知管長の記事です:
1300年前、修験道を開いた役行者が、修行中に目の前に現れた蔵王権現の姿を桜に彫ったとされ、以来、人々は「祈りの証し」として桜を植えてきました。人の為でなく、蔵王権現に認めてもらう為に。だから、桜は御神木となったのです。
桜の保護運動は、今年で設立100周年となる吉野山保勝会などが中心となり、苗木の栽培や下草刈りなどを一年中、行っています。私も若いころからお手伝いしてきました。住民だけでなく、全国の市民や企業の人たちに支えてもらい、ご本尊もお喜びでしょう。
桜が、信仰とともに受け継がれてきたからこそ、吉野山は世界遺産になったのです。
・それから、箕面と役行者との関係については、ネットで見つけた説明をコピーです。龍安寺は、滝道に入ってほどなくのところにある昆虫館を通り過ぎて、川に赤い橋が架かっている場所の左手にあるお寺です。今でも龍安寺では、全国の山伏が法螺貝を吹きながら集まって護摩焚きをする昔ながらの行事が行われています。
役行者(えんのぎょうじゃ)は大和の葛城山麓で生まれ幼少の頃より梵字を書き仏像を彫る神童で、成人してからは山で修行し神通力を得、その後は諸国を巡り歩き多くの山を開山したと伝えられています。60余年を山岳修行に終始され修験道の祖と仰がれています。
箕面山瀧安寺は658年飛鳥時代、大瀧のもとで苦行の末、弁財天の助法を受けてついに悟道した役行者が、報恩のため瀧のそばに堂を建て弁財天を祀り箕面寺と称したことが始まりです。
役行者の伝説は各地に存在し、常に前鬼と後鬼を従えて行脚し呪術で魔物を退治し人々を助けたといわれています。66歳の時その法力を妬んだ人たちによって伊豆大島へ流罪されますが、のちに無罪とわかり国師として都に迎えられ、68歳の時再び箕面へ戻り山奥にある天上ヶ岳から昇天されました。ゆえに箕面山は役行者の悟道の地とともに、御終焉の聖地といわれています。