山崎 雅弘さんがリツイート
tokkouji @tokkouji 6月15日
山城博治@国連人権委員会Human Rights Council 6/16https://m.youtube.com/watch?v=7LSX_WfDR_E&sns=fb …
1:36〜博治さんのスピーチ。日米両政府による強引な基地建設、機動隊派遣、微罪での逮捕、5ヶ月の拘留など説明。「沖縄の人々の民意を尊重することを求めます!」
内田樹さんがリツイート
deepthroat @gloomynews
東京新聞◆沖縄弾圧は「人権侵害」 基地抗議活動 山城議長が国連演説(http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201706/CK2017061602000116.html) … 「弁護士以外との接見を禁じられ、家族とも会うことを許されなかった。自供と抗議運動からの離脱を迫られた」【ジュネーブ=垣見洋樹】米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設に伴う名護市辺野古での新基地建設などに対し抗議活動を続けている沖縄平和運動センターの山城博治(ひろじ)議長が十五日、ジュネーブの国連人権理事会で演説した。抗議活動により長期勾留された自身の体験を紹介し「日本政府が人権侵害をやめ、新しい軍事基地建設に反対する沖縄の人々の民意を尊重することを求める」と訴えた。
山城さんは五カ月間の長期勾留について「弁護士以外との接見を禁じられ、家族とも会うことを許されなかった。自供と抗議運動からの離脱を迫られた」と、当局による人権侵害だったと指摘した。
基地建設への抗議活動に対して警察が大幅に増員されたことにも触れ、「私も、沖縄県民もこのような弾圧に屈しない」と、抗議を続けていく意思を示した。
山城さんは市民運動のリーダー的な存在。米軍キャンプ・シュワブのゲート前にブロックを積み工事車両の進行を妨害した容疑などで逮捕され、公判中。国連人権理では非政府組織(NGO)が意見表明できるため、裁判所で旅行許可の手続きを取ってジュネーブ入り。演説は、沖縄国際人権法研究会代表として臨んだ。
人権理では十二日、日本の言論と表現の自由について報告を行ったデービッド・ケイ国連特別報告者が「特に沖縄のような激しい論争の地域では、デモに対して必要かつ、(活動内容に)つり合った規制にとどめること」を要請した。
◎沖縄県知事と言えば、最初に名前や顔を知ったのはこの大田昌秀知事でした。当時、メディアで沖縄問題が取り上げられれば、この大田さんの顔があったということですね。戦争体験と憲法のありがたさ、本土復帰運動の末、帰ったところは平和憲法の日本ではなくて安保体制だった。翁長知事は今、安保体制を認めたうえでの辺野古返還を求めて県民の先頭に立っています。沖縄は今も昔も日本の本当の姿が見える島です。
6月16日(金)のABCテレビキャスト、キャストの特集「平和憲法の理想を求めて 沖縄の心 大田昌秀元知事の遺言」。
たまたま見ていて録画の暇なく慌ててカメラにとりました。
抜けている部分もたくさんありますが、並べて文字起こししてみました。
大田昌秀元知事は、12日、ハッピーバースデーの歌声を聴き終わると息を引き取ったとか。
92歳の誕生日に死去されました。
【「沖縄と日本」問い続けた生涯】
この番組の前日の朝、共謀罪が可決、成立した日本ですが、昨年の4月、浦川キャスターのインタビューで、すでに、心配されていた。
「沖縄から見ていると非常に危険な日本になっていると感じる。」
「再び日本は戦前同様の日本に変わってしまうおそれがある。」
【平和求め…原点は戦争体験】
大田昌秀さんが知事を務めたのは1990〜1998年、
日本政府と対等に議論した。
「どこまで沖縄の人は我慢すればいいというんですか」。
当時の総理大臣は村山富市氏や橋本龍太郎氏。
「最初に憲法を持ってこられたときは本当に感動しました。『戦争をしない』『軍事力を持たない』と書いてあるから。あの感動は昨日のように覚えています。」
あの戦争で沖縄県民は4人に1人が犠牲になった。中には手りゅう弾で命を絶つ集団自決も。19歳の大田さんは鉄血勤皇隊として前線に。
「本当に子供たちの戦場の姿はひどい」。写真館の写真を案内しながら・・・「(これらの写真は、)死ねないで生き残った人たち。」
「一番ショックを受けたのは水がないから水を持っている沖縄の人を、日本の兵隊が手りゅう弾を投げて殺して、その水を奪う。余りのショックで生きている意味を見いだせなかった。」
米軍に占領された沖縄県民は収容所に・・・
【希望をくれた平和憲法】
「ある時、先生に日本国憲法のコピーを見せてもらった。『自分が重要だと思うところは鉛筆で書き写していい』と仰った。本当に感動して、文字通り自分に生きる規範を与えたもの。単に国の基本方針を決めたものじゃなくて、私個人にとっては人間として再び生きる価値を見出したのがこの憲法。」
<憲法への憧れ>
1960年には、アメリカの統治下、本土復帰運動が起こった。
<平和憲法のもとに帰ろう>
浦川「本土に帰るということは、日本政府に統治してほしいじゃなくて、平和憲法に入りたいと?」大田「そうです、平和憲法のもとにというスローガンだった」
<1972年、沖縄復帰>沖縄にも日本国憲法が適用される。
沖縄では憲法手帳も発行された。
【米軍基地巡り政府と対決】
「日本の平和憲法のもとに帰りたいと復帰運動を進めたのに、
帰ったのは、日本国憲法じゃなくて、安保体制だったわけです。」
「だから沖縄の人はまた怒って抗議大会を開いた。」「平和憲法ではなくて安保体制のもとに返されてしまった。」
墜落事故や無残な事件が相次いだ。これがきっかけとなって普天間基地返還が決まったが20年以上経った今も返還は実現していない。
「沖縄の人たちの方は、憲法がなかっただけに、憲法の内実を しっかり 勝ち取ってきた。
ところが、本土の場合は、上から与えられた憲法だということで、
あんまり大事にしているように思えない、私たちから見ているとね。」
今年5月3日の憲法記念日、
安倍首相は2020年に憲法改正(施行)を
目指すというメッセージを発表した。
安倍政権では、特定秘密保護法、安保関連法、
そして今また共謀罪を成立させた。
安倍首相は言う「本法を適切に効果的に運用したい」。
「安倍政権というのは、我々から見ていると危ない、特に安保法制の強行採決とか。
若い人たちが国会に出てきて、戦争を知らない世代がたくさん出てきている。
だから、憲法のありがたさを身に染みて感じていないとしか思えない。
憲法が変えられてしまったら、戦後70年間の日本の民主主義がまったく価値のないものとして雲散霧消する恐れがある。
70年間戦争をしない、殺さない、殺されなかったのは憲法のおかげだと思っている。
それを変えてしまったら、また殺したり殺されたりしますよ。
二度とやらせたらいけない。戦争体験した私たちの”遺言”です。」(終わり)