映画「アラバマ物語」とボブ・ディラン


一昨日はヨーガの日。午後からコイン・ド・シネマの「アラバマ物語」です。朝、「今日はヨーガのあと映画見て帰るので・・・」と言って出ました。お昼は第2駐車場近くの喫茶店でサンドイッチを頼んで1時半ごろまで8人で。私たち4人のテーブルでの話題は、オリンピックどうなるの、豊洲はどうなるの?から、大阪万博やるって、夢よもう一度だけど、経済界がついてこないじゃない、ということから、われらが箕面市も五百何十億もかけて今ごろ地下鉄延伸してどうなの? 少子化なのに、政治家のやることは相変わらずね〜と皆さん、意外?と箱ものには厳しい見方でした。
その後、4人でメープルホールへ向かいました。私が声を掛けたのも何年振りかになってしまいました。隣に座ったOさんに、映画を見終わってホールを出るときに、そう言われました。前は誘ってくれたのに、と。箕面の映画館で見る映画は見ていたのに、どうしてかな〜と考えると、思い当たるのは、3・11です。どうも、原発事故以後、誘わなくなって、というより、私もほとんど見に行かなくなっていました。あれから5年半です。やっと、声を掛ける気になれたのかも。「アラバマ物語」だったからというのもありますが。

この映画を初めて見たのは、テレビで。良かった〜という印象が残っていて、お勧めしましたが、肝心なところでも結構忘れていました。
今回、大画面で、一緒に見たことで、一層、忘れられない一作になりました。
覚えていたのは、やはりあの子役で男勝りの女の子とお兄ちゃんと近所の”大男ブー”と呼ばれて恐れられていた”閉じ込められの引きこもり”男性との関係です。この女の子の回想を交えたナレーションが全編を流れます。リアルタイムではなくて過去の出来事という時間の距離がこのお話をまたなんとも言えないノスタルジックな物語として見てしまいます。
チラシはよく出来ていて、3枚の写真はこの映画の内容をとてもよく表しています。
妻を亡くした弁護士のアティカス・フィンチ(グレゴリー・ペック)は、子どもたちにパパと呼ばせないでファーストネームで呼ばせています。そのことも、このフィンチという人物がとってもリベラルで公平で一徹な人間であることを表しているようです。黒人の弁護を引き受けたことで、学校で嫌がらせを言われた女の子に「どうして引き受けたの?」と問われたフィンチは「断れば私は公平な人間ではなくなり、子どもたちを叱ることもできなくなるから」と答えます。

夏休みを休暇で2週間過ごす男の子と3人で、隣家のブーをのぞき見に行ったり、隣家との間に立つ大木の穴にプレゼントの品が置かれるようになったり。そして、映画は中盤、法廷劇に入ります。裁判のやり取りとアティカス・フィンチの理路整然とした最終弁論に、被告人は無罪当然。ところが陪審員の判断は有罪。当時は一階傍聴席が白人、黒人は二階。3人の子供たちは知り合いの黒人について二階に上がって裁判の様子を見ていましたが、有罪判決にガックリ。階下で一人帰り支度を済ませたフィンチ弁護士が帰りかけると、「弁護人の退廷だ、さぁ、立って!」と声がかかり敬意を表す起立で見送ります。そのあと、再審をすれば勝てると思っていたフィンチですが、護送の途中、逃げ出した被告人が銃で撃たれ死んだと知らされます。黒人を訴えた酒癖の悪い男親は裁判で黒人に恥をかかされたとフィンチを逆恨み。依然として、しつこく付きまとっていますが、ここまでが、人種差別のお話。

ハロウィーンのお祭りで、正装したお兄ちゃんとその地域の特産のハムに扮した女の子。女の子は裸足で、服もどこに脱いだかわからないと下着姿でダルマさんのようなハムの被り物をかぶって、のぞき窓から外を見ながらお兄ちゃんと森の中を家に向かって歩き出します。誰かが付いてくるような足音がします。二人は逃げ出しますが、そこで、お兄ちゃんが襲われます。ところが、誰かが助けてくれて、傷ついたお兄ちゃんを抱っこして家まで連れて行ってくれます。フィンチが家に駆け付け、医者を呼びます。顔を殴られ、手は骨折していました。
保安官が駆けつけ、実は、黒人に強姦されたと訴えを起こした娘の父親が森の中でナイフで刺されて死んでいたと報告。状況から、フィンチは自分の息子が…と察して、いずれ裁判になるだろう…と言い出すと、保安官は、「あなたの息子が刺したのじゃない」と。
部屋の扉の裏に隠れていたのは隣家のあのブーでした。すべてが分かった女の子は手を取ってお兄ちゃんのところへブーを連れて行きます。「寝ている間なら触っても怒らないから触ってやって」と女の子に言われ、ブーはお兄ちゃんのおでこを優しくなでます。この男の子だけが、閉じ込められているブーに関心を寄せ、危険を冒して会いに来てくれ、ブーの贈り物を受け取って大切にしてくれた友達でした。

保安官は、「刺したのはブーだ。だけど、正当防衛のブーを公けにさらすことは誰も望まない。いいね、あの男は自分でナイフの上に転んだんだ」と言いおいて去ります。それを聞いていた女の子が言います「保安官は正しいわ。まねしツグミモッキンバード)を殺すことは罪なのよ」。
普段からアティカスは、けんかっ早い女の子に、心情を理解できるようになりなさいと諭していました。彼女は、今、父親の教えが分かったのです。『モッキンバードを殺すこと』がこの映画の原題です。

終わって、みんな、深いため息を。一人が、「これ1962年の映画でしょ、新しいやんか。まさに今の問題やん」。そうですね、ヘイトスピーチや障害者施設が襲われる日本のまさに今の問題です。「良かったね〜。重い話やな〜。重いよね〜。すごいね〜」でした。1930年代、大恐慌の南部の地方都市の経済的な厳しさや貧困も描かれ、子供の視点で捉えた人種問題や障害者問題となっていて、余計に大人は考えさせられます。それにしても女の子を演じたメアリー・バダムがいつ見ても生き生きとして魅力的です。

原題にもなっている「モッキンバードを殺すこと」は、映画で二度出てきます。最後の女の子の言葉と、その前に、子どもたちの前で、狂犬を銃で撃ち殺したアティカスが、「美しい声で鳴き、悪さをしない”まねしツグミ”は殺してはいけない」と言った時。このときの言葉を覚えていて、女の子はブーがモッキンバードだと理解したのですね。アカデミー賞の主演男優賞、脚色賞美術賞受賞がうなづけます。
原作は1960年のピューリッツアー賞受賞のハーパー・リーの小説「ものまね鳥を殺すには」(To kill a Mockingbird.)。「ものまね鳥」のところを映画の字幕では「まねし鳥」と訳していました。因みに、著者のハーパー・リーさんは今年2月19日、89歳で死去しています。
チラシに書かれている映画100年の記念のヒーローベスト100で、グレゴリー・ペックのアティカス・フィンチが一位に選ばれたのは2003年のことです。セリフのないブー役を演じたのはロバート・デュバルでこれが映画初出演とか。(3人の子供たちの写真と英文のポスターの写真はネットでお借りしました)
ノーベル文学賞、意外や意外、ボブ・ディランが受賞! なんと、デビューがこの映画と同じ1962年、この年ビートルズもデビューとか。アメリカはベトナム反戦運動公民権運動が盛んな時期。この年の秋”キューバ危機”、翌年、公民権運動の最大の盛り上がり”ワシントン大行進”、翌年人種差別を禁じる公民権法成立。日本は安保反対闘争が終わって2年後。私は高校生でしたね。”大砲の弾が永久に撃てないよう禁じられるのに、いったいどれだけの砲弾が撃たれないといけないのか、その答えは、友よ、風の中に、風の中に吹かれて・・・” 時代によって抱える問題は実際にはあまり変わってないのかも。でも、ノーベル文学賞がこんな詩を歌った人に与えられる時代にはなったんですね。