映画「標的の島 風かたか」


◎先週のこと、十三(じゅうそう)の第七劇場で「人生フルーツ」を観たというSさんに勧められたのですが、その時もらったチラシにあった沖縄の映画を見に行くことに。母も木曜日は美容院へ行くので朝のコーヒーはいらないと前日に、で、夫の居ぬ間の映画のチャンスです。10時に間に合うように出たのですが、久しぶりの青空に映える桜にカメラを向けて写真を2枚。これが災いして改札のところで一電車を逃しました。石橋でいつも急行なのに乗った電車は普通。こんなこと初めて。ゆっくり各駅停車で十三着10時。小走りでビルの6階まで。

チケットを買ったら、今予告編の上映ですと言われて滑り込みセーフでした。8日は監督の三上智恵さんが来られてトークがあったのか、サイン入りのポスターが飾ってありました。毎日放送の先週、ちちんぷいぷいだったか、三上氏の毎日放送アナウンサー時代の映像も流れて、番組でこの作品の紹介をしていました。私も、花見の茶会?でチラシを見せてお誘いしたのですが…一人で行きました。箕面駅でツバメの巣を見ました。今の駅舎の前、私が高校時代まで木造の駅舎でツバメが沢山巣をかけていました。あれ以来、やっぱり覚えていて巣を作っているんですね。

監督メッセージ


 2016年6月19日、過去最も悲しい県民大会が那覇で開かれた。炎天下の競技場を覆いつくした6万5千人は、悔しさと自責の念で内面からも自分を焼くような痛みに耐えていた。二十歳の女性がジョギング中に元海兵隊の男に後ろから殴られ、暴行の末、棄てられた。数えきれない米兵の凶悪犯罪。こんな惨事は最後にしたいと1995年、少女暴行事件で沖縄県民は立ち上がったはずだった。あれから21年。そのころ生まれた子を私たちは守ってやれなかった。



 大会冒頭に古謝美佐子さんの「童神(わらびがみ)」が歌われると聞いて、私は歌詞を聴かないことにした。子の成長を願う母の気持ちを歌ったもので、とても冷静に撮影できないと思ったからだ。ところが被害者の出身地の市長である稲嶺進さんが、歌の後にこう語った。「今の歌に『風(かじ)かたか』という言葉がありました。私たちはまた、一つの命を守る風よけー『風かたか』になれなかった」。そう言って泣いた。会場の女性たちも号泣した。


 できることなら、世間の強い雨風から我が子を守ってやりたいというのが親心。でも、どうやったら日米両政府が沖縄に課す残酷な暴風雨の防波堤になれるというのか。しかし勝算はなくても、沖縄県民は辺野古・高江で基地建設を進めるトラックの前に立ちはだかる。沖縄の人々は、未来の子供たちの防波堤になろうとする。

 一方で日本という国は今また、沖縄を防波堤にして安心を得ようとしている。中国の脅威を喧伝しながら自衛隊のミサイル部隊を石垣、宮古沖縄本島奄美に配備し、南西諸島を軍事要塞化する計画だ。その目的は南西諸島の海峡封鎖。だが、実はそれはアメリカの極東戦略の一環であり、日本の国土も、アメリカにとっては中国の拡大を封じ込める防波堤とみなされている。


 この映画はそれら三つの「風かたか」=防波堤を巡る物語である。


                                                 三上智恵


高畑 勲(アニメーション映画監督)
この映画の明るさはすごい。抵抗し、ごぼう抜きにあいながら、人々は歌う、踊る、笑う。一人一人が昂然と胸を張っている。みんなのあふれ出す命の輝きに胸打たれ畏敬の念を覚える。本土から派遣された機動隊員の顔の死んだような無表情に、私たち本土の人間の沖縄に対するうしろめたさを重ね合わせずにはいられない。辺野古・高江だけでない。沖縄県の島々を自衛隊が新たに基地化し、国は沖縄全体を仮想敵国の“標的”にする気なのだ。この映画はそれを教えてくれる。



森 達也(映画監督・作家)
静かに生きたいだけ。なぜそれが許されないのか。
オバアのこの慟哭を伝えたい。
日本人なら観るべき。いや、日本人でなくても観るべきだ。ラスト、胸が熱くなる。これはまさしく「映画」だ。



金平茂紀(TVジャーナリスト)
風かたか――風よけ。弱いものを危害から守る役割を果たすこと強い者に媚びる生き方はしたくない。弱い者の側に立ってこそ初めてみえてくることがある。圧倒的多数の側ではなくて、少数の側の声に耳を傾けたい。一色に染まるのは気持ちが悪い。異なったもの、異質なものは、それだけで価値がある! だから沖縄からは、ほら、日本のありようが丸見えになる。新作『標的の島 風かたか』は、風よけになろうとする人間の尊厳のものがたりだ。



松江哲明(ドキュメンタリー監督)
ハッピーエンドがないことを分かっていながらも、結末を見つけなければいけない悔しさが滲み出ていた。「。」ではなく「、」で終わる理由を、もっともっと考えなければいけない。




想田和弘映画作家
沖縄の民を排除するために、「本土」から大量の機動隊が送り込まれる雨の中、女性たちが機動隊青年らの目を見て対峙するが、青年たちは相手の目をまともに見ることができない。ここに「沖縄」の構造が凝縮されている。



武田砂鉄(ライター)
政府は「地球儀を俯瞰ふかんする外交」と繰り返し言う。その地球儀に、沖縄は記されていないのだろうか。
その地球儀から、踏み潰される珊瑚礁は見えまい。
かく言う私たちも、沖縄の怒りを俯瞰してはいまいか。



ジャン・ユンカーマン(映画監督/『沖縄 うりずんの雨』)
軍事戦略のために70年以上、踏み潰された沖縄。今は更に、本島でも先島諸島でも、米軍も自衛隊も、その犠牲を拡大しようとしている。時代遅れの「安全保障・抑止力」神話に抗して、現実に生きている人々と島々の声をこの映画が届けてくれます。



勝井祐二(音楽家
沖縄の最前線を見つめる三上智恵監督から届けられた「標的の島 風かたか」は、優しくも鋭く僕らが住んでいるこの国の在り方を問いかけます。映し出される人と人の想いや祈り、音楽や踊りのダイナミクス

今、体験するべき作品だと思います



木村草太(憲法学者
沖縄の唄や踊りには、土地の記憶が刻まれている。軍事力に故郷が脅かされることへの怒り。
それに多くの人が無関心であることへの悲しみ。
土地の固有性を失った都会の人々は、その怒りと悲しみを理解できるのか。



ピーター・バラカンブロードキャスター
この映画で初めて知った「エアシー・バトル構想」にはぞっとするものがあります。改めて沖縄を犠牲にしようとするこの国の政府は本当に許せない。まずこれを見て、実態を知りましょう。

(↑4枚の写真はチラシから)
◎もう一つのチラシに三上監督が書いているように、この映画はエイサーやお祭り、三線や県民大会での古謝美佐子が歌う「童神」、最後、高江のテントで歌われる「兵士Aくんの歌」など、郷土の文化や歌が盛りだくさんですが、やはり、政府が理不尽に進める高江のヘリパッド建設工事と辺野古の埋め立てに抗議する人々の姿や宮古島で新たに自衛隊が配備されることに反対する若い母親たちの姿が心に残ります。戦争の体験からくる二度と戦場にしてはならないという決意が戦争体験者からその子供や孫世代に受け継がれていることがよくわかりますが、それと同時に、そんなにも長い間戦い続けなければならない沖縄に、本当に申し訳ないという気持ちにも。それに今は沖縄諸島として新たなアメリカによる中国封じ込めの大きな弧(防波堤・風かたか)の海洋部分の中心にも据えられています。

豊能障害者労働センターの機関誌に載っていた「てぃだぬふぁ」の代表の石嶺さんが映画にも登場。結婚して宮古島に移って出産、念願の織物をしていたのが、急きょ自衛隊が配備されることになって、その反対運動の先頭に立ち、この映画では市会議員に当選するシーンが出ていました。映画にはありませんが、その後、舌禍事件?を引き起こすことになり辛いんじゃないか…とちょっと気の毒になりましたが、負けずに頑張っておられることでしょう。(☆蛙ブログ<「宮古島陸上自衛隊配備問題について」(「てぃだぬふぁ」代表)>http://d.hatena.ne.jp/cangael/20151225/1451008335
国会議員の照屋さんがズシリと重い反対署名簿を若い自衛隊員に渡すときに、「分かるか! 沖縄では、軍隊は住民を守らないということを体験しているんだ」と叱りつけるように仰るのですが・・・座り込む住民の皆さんやリーダーの山城博治さんまで、みんなみんな、涙ながらなんですね。それを見ながら私もずっと涙が滲むのをおさえられない時間でした。激しい言葉や怒りの底にはみんな涙です。”涙そうそう”なんです。私が生きているうちに沖縄から米軍を追い出すことは出来ないのでしょうか。沖縄は日本の置かれた姿を裸で見せてくれています。本土があゝならないのは、どこかで誤魔化しがあり、沖縄に押し付けているからですね。それに気づかない限り沖縄を日本として抱き取める日は来ないでしょう。でも、それに気づくことは出来るはずですから、この映画、たくさんの人に見てもらえるといいのにと思います。日本が沖縄を取り戻す日、それは日本が自立する日、敗戦が終わる?日のことでが、沖縄がそれまで我慢できるか・・・最後に映画の公式サイト(http://hyotekinoshima.com/message/)から予告編を: