木曽義仲の最期

(2つ目です)

先週、師走最初の土曜日(3日)は、平家物語の日でした。
この日は、毎年、お茶とお菓子を準備して、テーブルをロの字に移動させて、自己紹介をすることになっています。今年は大勢で、1人1分にしても40分近くかかるので一分以内厳守といわれています。昨年は、当番二人でコーヒーや紅茶、お菓子を用意して忙しい思いをしましたが、もう1年も経ったのね、と隣同士に座ったMさんと二人で。
その前に、木曽義仲の最期の場面です。
先生が、義仲の最期は哀れだから好きと仰っていましたが、本当になんとも言えない最期です。
前回、木曽義仲は、”自害覚悟の最後のいくさに女連れと言われては名誉が傷つくから”と巴御前を戦場から去らせました。巴は愛する人と最後まで一緒に戦いたいと思ったでしょうに、女ゆえにそれもならず…その後どうなったか、諸説あるようですが、不明とか。この日、義仲の最期を読んだ後では、義仲の本音は、ただ巴御前を逃がしてやりたかったのだと思いました。
さて今回は、乳母子(めのとご)で家来の今井四郎(いまいのしろう)兼平(かねひら)との出会いと別れです。

二人は夫々の戦場からひかれるように琵琶湖畔でばったり出会います。ここでは、義仲は、兼平に弱音を吐いて、一緒に戦って死のうと言います。義仲には乳飲み子兄弟としての友情しかないようですが、兼平は、武士は最後に不覚をとれば末代までの恥と「私が敵を相手にしている間にあの松原で自害なさい」と説きます。
説得されて木曽殿はただ一騎で松原に。正月二十一日(今の二月下旬か三月上旬)の日没のこと、薄氷が張った深田に馬がはまって鞭打っても身動きならず、今井の行方が気がかりで振り仰いだ兜の内側を、三浦の石田次郎為久の矢に射抜かれます。兜の鉢の前面を馬の頭に当ててうつぶせになったところで首を取られてしまいます。打ち取ったりの大音声(おんじょう)を聞き、今井四郎は「今はもう誰のために戦おうか。これ見給え。東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」と、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かれるようにして死んでしまった。義仲三十一歳、兼平は三十三歳でした。
◎なんとも皮肉なものです。立派な最期を遂げさせてやりたいと思った兼平の願いに反して、義仲は、首を取られるという最悪の最期でした。
最後に乳兄弟の兼平と一緒に戦って死にたいと望んだ義仲は、主従という関係や武士という身分よりも、兄弟の契りを優先した人だったのですね。

そして、二人が落ち合った打ち出の浜というのは、琵琶湖沿いにあるびわ湖ホールのある場所より内陸側のすぐ近くです。ここが粟津というところで、昔はびわ湖畔で、木曽義仲と今井四郎兼平の最期の地だったようです。今、びわ湖ホールのあるあたりは埋め立て地で、ホールのロビーからガラス越しにも見える大きな石の灯篭のあるところを歩いたことがあります。
(写真、イラストはネットの画像より)

◎10月の95歳の誕生日に白内障の手術で病院一泊した母、しばらくおとなしくしていましたが、視力回復して眼鏡も新調、活動再開です。先月末からヨガをスタート、俳句は今週の月曜日が二度目となりました。二句、並べます。


     十二月捨てきれぬもの多く持ち


     暮れて揺れ、暮れても揺れる冬すすき