西郷さんと「安倍首相」と「天皇陛下」(内田樹氏)


先日、内田樹氏のブログが更新されました。内田樹氏と高橋源一郎氏との間で話されたテーマがタイトルの『「民の原像」と「死者の国」』ですが、わかりやすく言えば、安倍晋三天皇陛下の違いについてということです。その前に、内田樹氏が読まれた渡辺京二著『維新の夢』の西郷隆盛についての話が導入部になっています。
お正月、NHKアーネスト・サトウの「江戸城無血開城」のドラマに薩摩弁の西郷さんが出ていましたので、私の中でも繋がっています。リード部分をコピーすると:

高橋源一郎さんと昨日『Sight』のために渋谷陽一さんをまじえて懇談した。
いろいろ話しているうちに、話題は政治と言葉(あるいは広く文学)という主題に収斂していった。
そのときに「政治について語る人」として対比的に論じられたのが「安倍首相」と「天皇陛下」だった。
この二人はある決定的な違いがある
政策のことではない。霊的ポジションの違いである
それについてそのときに話しそこねたことを書いておく。
なぜ、日本のリベラルや左翼は決定的な国民的エネルギーを喚起する力を持ち得ないのかというのは、久しく日本の政治思想上の課題だった
僕はちょうど昨日渡辺京二の『維新の夢』を読み終えたところだったので、とりわけ問題意識がそういう言葉づかいで意識の前景にあった。
渡辺は西郷隆盛を論じた「死者の国からの革命家」で国民的規模の「回天」のエネルギーの源泉として「民に頭を垂れること」と「死者をとむらうこと」の二つを挙げている。

◎ぜひ、ブログを訪ねて渡辺京二さんの引用で始まる全文を。ここでは、メモのため途中から貼り付けです。安倍首相と天皇陛下との共通点と相違点。”違いが解る人”というのは大昔どこかのインスタントコーヒーのキャッチフレーズでした。若いタレントさんの顔が覚えられずなかなか区別がつかないのは、”違いが解らない”からですね。理解するうえで”違いが解る”というのはとても大事ですので、この記事はとてもよかったです。以下、引用。(引用元:http://blog.tatsuru.com/2017/01/15_1243.php

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長い論考の一部だけ引いたので、論旨についてゆきずらいと思うけれど、僕はこの「民の原像」と「死者の国」という二つの言葉からつよいインパクを受けた。
渡辺京二の仮説はたいへん魅力的である。歴史学者からは「思弁的」とされるかも知れないが、僕は「これで正しい」と直感的に思う。
という読後の興奮状態の中で源ちゃんと会ったら、話がいきなり「大衆の欲望」と「死者の鎮魂」から始まったので、その符合に驚いたのである。
『維新の夢』本で、渡辺京二は日本のリベラル・左翼・知識人たちがなぜ「国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱と誠心」を持ち得ないのかについてきびしい言葉を繰り返し連ねている。
それは畢竟するに、「民の原像」をつかみえていないこと、「死者の国」に踏み込みえないことに尽くされるだろう
「大衆の原像」という言葉は吉本隆明の鍵概念だから、渡辺もそれは念頭にあるはずである。
だが、「死者の国」に軸足を置くことが革命的エトスにとって死活的に重要だという実感を日本の左翼知識人はこれまでたぶん持ったことがない
彼らにとって政治革命はあくまで「よりよき世界を創造する。権力によって不当に奪われた資源を奪還して(少しでも暮し向きをよくする)」という未来志向の実践的・功利的な運動にとどまる。
だから、横死した死者たちの魂を鎮めるための儀礼にはあまり手間暇を割かない。
日本の(だけでなく、世界どこでもそうだけれど)、リベラル・左翼・知識人がなかなか決定的な政治的エネルギーの結集軸たりえないのは「死者からの負託」ということの意味を重くとらないからである。僕はそう感じる
日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。


靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである
どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。
どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである
世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである
政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない
政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。
リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。
極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っているそれだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある
安倍晋三は今の日本の現役政治家の中で「死者を背負っている」という点では抜きん出た存在である
彼はたしかに岸信介という生々しい死者を肩に担いでいる。祖父のし残した仕事を成し遂げるというような「個人的動機」で政治をするなんてけしからんと言う人がいるが、それは話の筋目が逆である。

今の日本の政治家の中で「死者に負託された仕事をしている」ことに自覚的なのは安倍晋三くらいである。だから、その政策のほとんどに対して国民は不同意であるにもかかわらず、彼の政治的「力」に対しては高い評価を与えているのである
ただし、安倍にも限界がある。それは彼が同志でも朋友でもなく、「自分の血縁者だけを選択的に死者として背負っている」点にある
これに対して「すべての死者を背負う」という霊的スタンスを取っているのが天皇陛下である
首相はその点について「天皇に勝てない」ということを知っている。
だから、天皇の政治的影響力を無化することにこれほど懸命なのである。
現代日本の政治の本質的なバトルは「ある種の死者の負託を背負う首相」「すべての死者の負託を背負う陛下」の間の「霊的レベル」で展開している
というふうな話を源ちゃんとした。
もちろん、こんなことは新聞も書かないし、テレビでも誰も言わない。
でも、ほんとうにそうなのだ。
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(写真は隣の畑の蝋梅と我が家の庭のシャクナゲクリスマスローズ、椿)