平家物語「忠度最期」と「重衡生捕」

◎3月の第一土曜日は平家物語の日です。
先生の開口一番は、森友学園でした。あんな学校、開校させたら大阪の恥ですね〜。認可延期は認可につながるからダメ、と仰って、今日は2つ進みたいのでと切り上げて音読に。たまたま先月と同じ方の隣に座ったのですが、もう皆さん、熱心にテレビを見ておられるようで、先生顔負けの「森友」通でした。
先週一週間でテレビ全局、NHK、読売(日テレ)も関テレ(フジ)もこの問題を取り上げるようになりました。お陰様であんなに頑なに認めようとしなかった安倍政権の公私混同の右傾化を母が認めるようになりました。教育勅語を暗唱する幼稚園児の姿に、「なに、あれ、今時、間違ってる」と。
先週、母はヨガの帰り道、ご近所の60代の方と金正男暗殺の話になったとき、「日本も戦前は北朝鮮と同じだったのよ」と話したそうです。「今の北朝鮮の人達、マレーシアの事件や世界の様子を何も知らされてないのよね。でも日本も昔は一緒だった。戦争で実際は負けてたのに、新聞、ラジオで勝った勝ったと提灯行列までやった。本当は負けてたのに、みんな分からなかった」と昔の日本の話しをしてきたと言ってました。それなのに、あの時代の教育勅語を諳んじて”安倍首相がんばれ、がんばれ!”と北朝鮮みたいなことを言わせる小学校が、つい目と鼻の先の豊中の庄内に作られるというので大ショックだったようです。「箕面でなくてよかった」と身震いしていました。

山崎 雅弘さんがリツイート

Tad‏ @CybershotTad 3月4日
#報道特集 #森友学園


日下部キャスター一部の大人たちの理想としている国家感を小さい子どもに言わせる、しかもそれを聞いて感動する大人たちがいることに驚く
同じような感覚に陥ったことがあると思ったら、以前北朝鮮の幼稚園の取材をした時にまさに同じような気分になった

★さて、平家物語です。
今回は清盛の末弟「忠度最期(ただのりさいご)」と、清盛の五男の「重衡生捕(しげひらいけどり)」を読みました。

忠度(ただのり)は、歌人としても武将としても有名で、都を後にするとき、歌人で師事した藤原俊成の屋敷に従者を連れて立ち寄り、歌を収めた巻物を託しました。『千載和歌集』の撰者・俊成は、朝敵の忠度の歌を”詠み人知らず”として「故郷の花」という題で詠まれた一首のみ掲載、後の『新勅撰和歌集』以降は薩摩守(さつまのかみ)忠度で掲載。


   さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな


この都落ちの段について学んだ折、着物の着付け教室をやっておられ謡や琵琶もという雲龍柳さんのブログで私は先生の受け売りの解釈で、武芸を忘れて京の都の貴族の芸術に心を寄せるようになったことが平家滅亡につながったようなことをコメント欄に書いてお叱りを受けました。武士(もののふ)の生き方をおろそかにせず歌の道との両立を心がけた平家の公達の心根が理解できていないということでした。深く反省、一層、平家物語の理解を深めたいと思いなおしました。その薩摩守忠度の最期を描く場面です。

身分の高い大将は戦闘場面では派手で目立つ格好をします。平家物語は必ずその装束を記録しています。「一の谷の西の手の大将軍薩摩守忠度」は「紺地の錦の直垂(ひたたれ・鎧の下に着る衣服)に黒糸縅(おどし・かがってある)鎧を着て、黒くてたくましい馬に乗っていた」そうです。当時は敵の大将の首を取ればご褒美にありつけたので、手柄を上げたい人に狙われます。で、名前を問われて「味方だ」と答えたのですが、鉄漿(お歯黒)で見破られて殺されてしまいます。周りに百騎いたかり集めの味方の軍兵はみな逃げてしまったのだとか。馬から降りて取っ組み合いになって刀を振り上げた右手を子どもがひじの付け根から切り落とし、もはやこれまでと念仏を唱えて首を討たれます。その時、箙(えびら・矢の入れ物)に文が結んであって、解いてみると「旅宿花(りょしゅくのはな)」と題する一首の歌が詠まれていた。


   行き暮れて木(こ)の下影を宿とせば 花やこよひの主(あるじ)ならまし   忠度


大音声で「この日ごろ、平家方で有名な薩摩守殿を、岡部六野太忠純がうち奉(たてまつ)ったるぞや」と名乗りければ、「あないとほし(ああ気の毒に)、武芸にも歌道にも達者にておはしつる人を」と敵味方なく惜しまれたということです。
先生によりますと、唱歌青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)の二番は、平家物語巻七「忠度都落ち」と巻九「忠度最期」の二場面を、続けて歌にしています: 更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ  今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や 今宵」の歌(歌詞はWikipediaより)
←写真は、この日、生徒さんのお一人で、「旅宿花」の拓本をとって、自分で表装までされた掛け軸を披露されたものです。 


重衡生け捕り」は、生田の森の副将軍だった清盛の五男重衡(ひでひら)のお話です。木曽義仲の最期は乳母子(めのとご)同士の深い絆の話でしたが、こちらは同じ乳母子でも見ごろして逃げるという・・・なんとも武士の風上にもというお話。
まずその日の装束は、「褐色の地に黄色の糸で岩に群(むら)千鳥の縫い取りをした直垂(ひたたれ)に、紫裾濃(すそご)の鎧を着て、童子鹿毛(どうしかげ)という評判の名馬に乗った」重衡と、乳母子(めのとご)の後藤兵衛盛長(ごとうひょうえもりなが)の主従二騎が取り残される。海べりを二頭の馬で、湊(みなと)川・刈藻(かるも)川を渡り、板宿(いたやど)・須磨もうち過ぎて西を指して落ちていかれる。
逃げ続けるので、梶原玄太景季(かげすえ)は万一当たるかと遠矢を引き絞って射たところ、重衡の馬の後ろ脚にあたって馬が弱ったので、盛長は自分の馬を譲らないといけなくなるのではと鞭を振るって逃げて行ったというのです。重衡は自害も果たせず生け捕りに。その後、生き延びた盛長は京へ上る機会があったとき、重衡の乳母子として顔を知られていたので、「ああ恥知らずの盛長や。あんなにかわいがっておられたのに・・・」と非難され、さすがに恥ずかしがって扇で顔を隠したということです。