敦盛最期と青葉の笛


先週の土曜日、4月1日、エイプリルフール。国会での嘘まみれの閣僚の答弁を聞いていると、この日ぐらいは本当のことを言おうよという日を国会で作ってほしいと思ったり…ところで、いつもなら桜のトンネルになっている我が家の近くの桜並木も少しつぼみが色づいたぐらいで今年は寒い4月を迎えました。平家物語、「いよいよ名場面、敦盛最期(あつもりのさいご)です」と先生も。私にとっても特別です。平家物語といえば、冒頭の有名な一節:(これが早く今の一強支配の自民党安倍政権にも当てはまってほしい)写真は中央生涯学習センターの階段から見た芦原公園

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

この部分と、敦盛の最初のところだけが私の「平家物語」。高校の古文の時間に読んだ敦盛のいでたちを表すくだりがとても印象深く記憶に残っていました。半世紀以上の時を経てその部分と再会です。

練貫(ねりぬき)に鶴ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ)匂いの鎧着て、鍬形(くわがた)うったる甲(かぶと)の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑(きりふ)の矢負い、滋籐(しげどう)の弓もって、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍おいて乗ったる武者一騎

特に、『キンプクリンのくらおいて』のあたりはコビリついて離れません。今回、最後まで読んで、母がよく口ずさんでいたあのもの悲しいメロディの「青葉の笛」の曲調が見事にこの物語を表していると思いました。大体の筋を書いてみますと:
手柄を上げようと、沖の船めがけて逃げようとする立派な大将装束の武者を「卑怯者、逃げるのか」と呼び止めると、逃げるのをやめて引き返してくる平家の武者。組み伏せて、首を取ろうと甲を押し上げると、薄化粧をして鉄漿(おはぐろ)をした年のころは15,6歳。この戦でケガをした我が息子小次郎と同じくらい。殺すに忍びず名を聞くと「汝こそ誰だ」と聞かれ「武蔵の国の住人、熊谷次郎直実」と名乗ると、相手は名乗らず「首を取って人に尋ねれば分かる」と。

見逃そうにも味方が続々とやってくるのを見て「人手にかかるより私が手掛けて後のご供養を」と直実が言うと、「さっさと頸をとれ」と言われ、泣く泣く・・・・。取った首を手に直実は泣きながら、つくづく侍の身を後悔します。やおら首を直垂(絹の着物)で包もうと鎧を取ると錦の袋に入った笛を腰に差しています。「あぁ、明け方に楽の音がしたのは、この方たちだったのか。東国の兵何万騎ある中に、戦陣に笛を持つ人はあるまい。『上臈は猶もやさしかりけり』=「身分の高い人はやはり優雅なものだ」と思って、大将の九郎御曹司(義経)にお目にかけたら、涙を流さない人はいなかった。
のちになって聞くと、平清盛の弟の経盛(つねもり)の子息で大夫敦盛、生年十七(数え年)。「今なら高校生で、甲子園で野球やってますね」と先生。この笛は祖父の忠盛(清盛・経盛の父)が笛が上手というので、鳥羽院からもらった笛、名は”小枝(さえだ)”。この笛が直実が仏門に入るきっかけとなったのは誠に感慨深いことである。(いつも終わった後その場面が描かれた本を回覧、写真を撮りました

◎16歳くらいで、平家の公達は、”名こそ惜しけれ”、なんですね。「逃げるのか」と言われれば、もうすぐそこの船に乗り込めば逃げられるのに、引き戻すのですね。直実の方も、まさか自分の子供と同じ年恰好の若武者だとはつゆ知らず。日ごろ、武士に生まれたことを情けないと思っていたのに、こんな不憫な思いをするとは・・・それでも、混乱の中で惨たらしく死んでいくより自分が死後の孝養をと…この時すでに出家の気分ですね。哀切極まりないこの場面は「青葉の笛」のもの悲しさと共鳴しています。
◎この日は、音読が済んだ後で、ラジカセで録音された倍賞千恵子さんの歌を流して皆で歌いました。曲の調べと言い、歌詞の内容と言い、この敦盛最期をよく表していると思います。

一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐
聞こえしはこれか 青葉の笛

◎現代の若者たちも戦っています。ヘルシンキでのフィギュアスケートの世界選手権。羽生結弦選手が劇的な逆転で優勝。4回転が美しかったですね。19歳の宇野昌磨選手も2位でした。3位は中国の選手。平和な時代で本当にうれしいです。