お盆の里帰り


昨日は15日。朝のコーヒータイムで母が、今日はお盆だから、イカリ(スーパーマーケット)へ行ってお弁当を買って食べようと。午前中は父が寝ているので、カギをかけて出るからと一緒に買い物に出ました。母と買い物に出るのは久しぶりというか何年ぶりでしょう。母は帽子をかぶって買い物用のキャリーバッグ(老人用のいす式ではないもの)を押しながら、私は日傘をさして母に合わせて歩きました。7年前の圧迫骨折以来すっかり背中も曲がって小さくなった母ですが、週に何回かの買い物は自分で行っています。私が買い物に出るときに、声をかけてついでに買ってくるものを聞いたり、代わりに行くことはあっても、一緒に出掛けることは、そういえば、ここ何年かなかったかも。

イカリスーパーは、すぐ近所にあるイオン系列のコーヨーに比べると、少しお値段高めです。私は、ほとんどコーヨーで済ませますが、母はイカリです。高級志向かと思ったら、レジで荷物の詰め込み作業をお店の人がしてくれるからだとのこと。その分、店側は人出がかかり、待ち時間もかかりますが、母のような高齢者には願ってもないサービスです。母とは別に私もカゴを持って食パンやニンジン一本とかリンゴ一個とか足りないものを補う程度。母が一緒に払ってあげるから入れなさいと言いますが、そこまで甘えられません。母は、生協さんにも注文するようになったのですが、結構沢山な買い物。そしてお弁当コーナーです。二人で見て、食べたいというお弁当が見つからず2往復して、炊き込みおこわに野菜の煮物を詰め込んだ小さいものに決めました。母は、鯛の新鮮なガラがあったので、豆腐とタイのお吸い物を作るからと。

3時過ぎ、栗入り蒸し羊羹を小皿に入れ、3人分のコーヒーをデミタスカップに入れ、トレイに乗せて隣へ出前です。父の足は随分腫れが引いて普通になってきました。今週は、金曜日だけの看護師さんの来宅に戻りました。食事はもう10日ほど前から台所のテーブルで摂っています。ここ数日は気温が28,9℃ぐらいで涼しい日が続き、過ごしやすくなりました。帰り際に、母が、「5時半か6時前に、それじゃ」と言ったので、5時半を過ぎたころ、小さいお盆をもって隣へ。母が、「じゃ、お父さんも一緒に3人で」と。見ると、台所で私の分も準備ができているようです。あれ、そういうこと!


私達一家が六甲から隣に引っ越してきたのが今から丁度40年前。私は3人姉妹の長女でしたが、次男である夫と結婚して姓が変わりました。夫の長男が独身のまま不幸な事件で亡くなって、私たちは一度は夫の実家に戻り同居、そこで次男も生まれました。その後、夫が転職と同時に転勤で大阪、実家は弟に任せるという暗黙の押し付け? 私達は六甲の社宅のようなところに住んでいました。その後、そこを出た方が良いと思ったころ、母が胆石の手術をした後で、箕面に来ないかと言われ、実家に移りました。
その頃は、母も私も、夫の実家を意識していました。私は、夫の実家が電話を掛けやすいように電話を別にひいたりしました。母は、我が家に用事があるときは、私を名前で呼ばないで夫の姓で呼んでケジメをつけようとしていました。養子に来てもらうなら夫の両親に頭を下げてお願いする、そんな気は毛頭ないと言っていましたので、娘としては、夫の姓で呼ばれるのはよそよそしくて少し寂しい思いもしましたが母の気持ちですので受け入れました。
その後、母が、私たちが住んでいる部分を壊して家を建てなさいと勧めてくれたので、今の家を建てました。夫の両親を呼んでお披露目もし、決して、夫を私の実家が取り込んでいるわけではないことも分かってもらいました。
今では、夫の実家は弟のものになり、夫の両親も亡くなり、そんなに気を遣う必要はないのですが、夫に対するケジメはそのままです。里帰りしてくる二人の妹たちは実家で食事をすることがあっても、隣りで暮らしている私には、実家は隣りであって実家ではないという状態が40年です。それが、夫がイタリアへ行って、私が隣りで一人ということで、母が私を呼んでくれて、両親と3人でお盆の日の夕食を一緒にいただくという思いがけない状況になって、初めて、あぁ、これは母が私に里帰りをプレゼントしてくれたんだと思いました。
それまでは、本当だったら、娘の私が夕食を支度して楽してもらえればいいのに…と思ったりしていたのですが、母はそんなことはつゆほども思っていなことが買い物に付き合ったときに分かりました。かなりの重さの買い物をレジのところでキャリーに入れてもらって、食パンなど押し込めないものをビニール袋に入れてもらっていたので、そちらは私が持つからと奪うように取って外に出たら、母が、外の椅子で一服するのと。よく、知らない人とおしゃべりしてきたと話しているのは、ここの椅子でのことかと思いました。一息ついたら、さあ、帰ろうとキャリーを押し出します。「重いんじゃないの」と言うと、「重いから安定していいのよ、軽いと浮くことがあって危ない」と、それもそうです。

帰り道はゆるやかな上りになっています。途中にあるセメント屋さんはお盆休みでミキサー車の出入りがなく、安心です。「大変よね〜この上りは」というと、母は、「大丈夫、足も使わないと衰えるから。私はまだ2階の階段の上り下りしているからいいけど。楽して家にいるとダメになるから、鍛えるつもりで週に何回かの買い物はするようにしている」と。
本当に頑張り屋さんです。女学校時代、往復2里の道を3年歩き通した母には負けます。村で一人だけ女学校へ行かせてもらった。友達はみんなもう家の手伝いか働きに出ているのに、学校へ行くのにバス通学させてほしいなんて言い出せなかったと言っていました。「一人になったらどうでもいいんだけど、お父さんが生きているから、(何にもできない、させてこなかったので)かわいそうなの、あの人のために頑張るの」と言っています。愛情の深さにも負けるな〜と思います。
私は、今まで通り、娘であることで親孝行しようと思いました。今までも、本当はもう私がすべきなのに、という後ろめたさもあったのですが、母の決意?のようなものを聞かされて、思い切りました。甘えていられるうちは甘えて親孝行しようと・・・思いがけない里帰りでそう思いました。
思えば、結婚するとき、妹たちに私は出ていくからね、結婚でやっと家(母)から出られるの…と言ったことを覚えています。長女の私に過剰な期待と愛情を注いでくれた母を疎ましく思い、何とか自立したいと思いつつ夫との結婚でしか実現できなかった私が、結局、実家の隣に住むことになり、夫の助けを借りながら母との関係をやり直すことに。母には若いころの私の葛藤については一言も言わずに。夫の理解があり、同居期間があった次男もわかってくれて、母を傷つけないで、何とか、自分の意志の通し方もわかってきました。夫も40年間、両親の生き方、暮らし方を見てきて、ついこの間も、二人には尊厳をもったままいかせてあげたいと話し合ったところでした。
おこわ弁当、二人の食べっぷりに私はびっくり。40歳手前で胃の3分の2を切除した私と101歳の父と95歳の母と3人で炊き込みおこわ弁当と鯛と豆腐の澄まし汁を食べたら、母が一番先に完食。父は白いご飯もお替りして野菜の煮物も完食。私は夜食に食べるねと言ってお弁当の3分の1ほどが残りました。参った〜でした。楽しい里帰りをありがとう・・・。
(月曜日、処方箋が出たので、すぐ私がもらって行きつけの薬局へ。置いておくと、自分のことは自分でと母が行ってしまいます。芦原公園の南側、中幼稚園への車止めのコンテナにヒマワリが咲いていました。南に箕面団地の20棟が写っています。)