大正生まれの両親を偲んで(その3)

◎両親が箕面に引っ越して来て接ぎはぎの家を建ててからは、母は3人娘の子育てに、父は会社の仕事に邁進していました。

当時の箕面は私たちの家辺りが住宅の東の果て、阪急箕面駅から真っ直ぐ東、白(の)島の入り口までの道はバスが通る桜並木。この桜通りと北小学校への登り道が直角に交わるところから南へ下る桜並木の両側が5筋程の道路が整備されていましたが、家が建っているのはポツンポツンという具合でした。

その桜並木の南の果てには府営住宅が建っていて、我が家の一筋南の筋の南側にグンゼの社宅。桜並木の果ての向こうは田畑で、仕切りの溝で男の子たちがザリガニ取をりをして遊んでいました。大きな給水塔のある府営団地も未だ建ってはいません。

我が家の前の通りは舗装もされていない蒲鉾状で、吉野さんと我が家の前だけ桜並木と同じ桜が5本植わっていました。その東側の4、5軒先は行き止まりで製材所の材木置き場。大きな丸太が積んであり、危険だから行かないようにと言われていました。

◇さて、母は、戦後のこれからは男女平等、3人娘だけど教育を身につけさせて…と思っていました。豊中に住んでいた場所の近くは「第十四高等女学校」の女学生の通学路になっていて、制服の胸当てのついたスカート姿が評判でした。戦後、女学校は男女共学になりましたが、母は3人も娘がいるんだから誰か一人はこの学校に入れたいと思ったそうです。私と妹がその母の夢を叶えますが、私は元男子校の進学校の方へ行きたかったのに言い出せず、暗黒の高校時代を過ごすことに。

今から考えれば母との関係はアダルトチルドレンと呼ばれるもので、私は典型的なアダルト・チャイルドでした。30代中頃だったか、仲間と読書会のようなサークル活動をしていて、河合隼雄さんの本を取り上げた時に、解りました。それ以後、どうやって克服するかが私の課題になっていました。丁度スタニスラフ・ブーニンさんのピアノを聞いてクラシック音楽が好きになったのと、家族の後押しがあって、母に自分の考えを伝えることが出来るようになり、母と意見が違っても、嫌なものは嫌、私の意見はこうだと言えるようになりました。逃げていないで隣に引っ越して来てこの課題と向き合ったことが母とのその後の良好な関係になったと喜んでいます。

大学時代の友人とグループで付き合っていて、この話をしたら、「そうよ、あの時代の母親は皆同じ。戦時下で青春時代を送って、出来なかったことを娘に託して実現しようとしたのだから。私もそうだし、当時は皆そうだったのよ」と言われて、「そうなのか~」と納得もしました。

◆父は、長男でしたが、大聖寺の家を次男に譲っていました。戦争から帰った次男の叔父さんは結婚して家に工業用ミシンを何十台も置いて人を使って輸出用のハンカチを製造する工場にしていました。家を継がない代わりに相続を放棄するという事だったようです。でも、父は長男の役目は果たしていました。寡婦となっていた姉二人の息子たち4人の就職の世話や弟の仕事の経済的援助を母の協力を得てやっていました。父は自分の甥が就職や仕事の相談にやってくると不機嫌になり、言葉は厳しくなりますが間に母が入ってとりなしていました。

◇その内、母方の親戚も頼ってくるようになりました。母のすぐ下の妹の末っ子の男の子は私と10歳違いでしたが、その頃流行していた小児麻痺(ポリオ)に罹り、叔母さんがこの子を連れて阪大病院の診察を受けに来て、母がついて行ったりしていました。

この子がとても可愛くて末の妹が可愛がっていたと母もよく言います。「大阪の子になりたい」と言うので「オジサンにお願いして見たら」と母が言うと、父は「タダでは駄目だぞ」と冗談を言って困らせます。すると「山一証券持ってくるからお願い」と言ったので皆で大笑いしたことがありました。叔父さんは株をやっていたので株券を持ってくるのかと思いました。この時の「山一証券」というのは・・・と後年本人の話では、テレビの上に置いてあった「山一証券」と書いた千両箱型の貯金箱のことだったそうです。

この子が長じて中学の数学の先生になり、箕面の駅向こうに住み、定年直前に念願だった定時制の先生になりましたが、今はそれも退職して、山を走っています。母親(私の母のすぐ下の妹)も家系の糖尿病で70代で亡くなり、二人の息子たちも糖尿病でインスリンの注射をしていましたが、弟の彼は山を走るようになって血糖値の数値が随分改善したと聞いています。

◇さて、母の実家も大変なことになりました。跡取りの長女(母の一番上の姉)が腎臓病で30歳で亡くなって男の子3人が残されました。末っ子がまだ小さかったので、娘さんを連れた方に後添いに来てもらい、長男が年頃になった頃、連れ子の娘さんと結婚させるという話になりました。

余りにイージーな考え方に私はビックリするとともに腹が立ちました。田畑と家屋敷を守るための結婚です。結局、夫婦二人がうまく行かず、妻の方が宗教にのめり込んでお金や田圃を勝手に寄進して困るというような話もありました。父が長男の権利を放棄して自由を得たのと同じように、母は実家の問題に対して外に出た者は口出しせずを守り続けました。その後叔父さんが亡くなった時点で、大騒ぎになりました。母は後添いの母娘にも理解を示していましたが、口出しはせず。田畑や財産をめぐる甥たちの争いには、誰の側にも立たず。その後、実家は家庭崩壊のような形になっていきましたが、母は我関せずでした。母はよく私に「お父さんもお母さんも実家からは一銭ももらわなかった。全部、誰の助けも受けずに二人で築いてきた」と言っていました。

◆◇私は大学で知り合った加賀市出身(は偶然)の次男坊の夫と24歳で結婚し、沼津で共働きの新婚生活をスタート。不思議なことに私が働いていたのは大きな機械メーカーで、お茶出しから灰皿の掃除、4時には注文部品の荷造りなどもしていましたがメインの仕事はマニュアルの翻訳でした。その後いろいろあって、夫が長男代行となり、加賀市で夫の両親と同居。その後、夫は転職して、大阪転勤となりました。長男代行は務まらず、弟に任せることに。

私たちは、神戸市六甲の社宅のような家で暮らし、長男は小学校に入学していました。その後、父の実家を工場にしていた父の弟が喘息(工場の環境が原因)で亡くなったあと、妻の叔母さんも実家に引き上げた後亡くなり、従妹は結婚して姓も変わりました。父のもう一人の弟は養子にでていましたので、私の旧姓も大阪箕面の両親で終わるということになっていました。

◎私の息子たちが小学校の5年生と3年生になった頃、母と一番仲の良かったすぐ下の妹の連れ合いさんから、お前のところは男の子が二人だから、一人に実家の姓を継がせることを考えたらどうかと言われました。長女としてそんな時も来るかと覚悟していたので、次男にそんな話をしました。

ところが、その話を母にしたら、両親揃ってきつく言われました。そんなことは考えてもいない、兄弟でバラバラになるような可哀想な事をなんでするの。家なんて、そんなことまでして守るほどの家ではないと言われました。この時ほど、自分の考えが古いと思ったことはありません。長女として親の願いを先読みして、忖度して…という長女癖が恥ずかしかったです。大人になってから次男にも、あれを聞いたときはショックだった、僕はどこの子になるん?と思ったと言われたことがあり、悪かったな~と心がうづく出来事でした。

◆母が入院して、父が隣の家から通路を渡って我が家の茶の間に入ってきて一緒に食事をするようになっていた父の晩年、私は気になっていたことを確かめたことがありました。最初の子どもが女だった時、どう思った?三人目が又女の子だった時どう思った?と訊いたら、父は即座に「何とも、女の子で嬉しかった。3人目の時も、男だったら良かったなんて思ったことはない。女の子で良かった」と答えました。

でも、父が99歳で東京と神奈川へ2回新幹線に乗って出かけることがありました。杖を突いて歩いていましたが、介助が必要で、トイレに行くときは夫が全部付き添ってくれました。娘には出来ないことで、夫が息子の役目を果たしてくれていてとても嬉しく感謝したことがありました。二人の姿を見て、結局、父は娘を育てて息子も得たことになってると。

◆◇90歳代に入った両親は、長男の最後の務め、お墓の引っ越しをしました。大聖寺の実家のお墓を三男で養子に行った叔父さんに任せたようになっていたのを、長男の父が引き取ることにしました。墓仕舞いです。お墓に入っていた骨壺を全部、京都の東山浄苑の仏壇とお墓がセットになっている下のお墓部分に引き取ることにして、生き残っている親族、加賀市から叔父さん、小松からは叔母さんも出て来て、私たち夫婦も一緒に、法要をしました。その後、誰かの知り合いだという京都の料亭で一席が設けられ、父の実家の思い出話が出ていました。どうしても父方の親戚とは縁が薄かったので話が分かりづらかったのを覚えています。

◎お墓については、母が若くして京都に仏壇とお墓のセットを買ったので、私も見習って、夫が15年勤めた会社を辞めたとき、まとまった退職金が出る仕事はこれが最初で最後だと思って、我が家の仏壇とお墓のセットを京都で買い求めました。40代の初め頃だったのでヨーガ仲間からは早すぎると驚かれました。当時130万円ぐらいだったのが今は300万円ほどになっていました。実家のお墓は小さな骨壺が入るスペースしか残っていませんが、満中陰が来たら、そこに入る最後の一人が母になります。

家や相続にまつわる問題などには一切関わらず、それらを放棄することで自由を得ていた父や母の生き方は、とても潔く清々しい感じがします。「人を差別してはいけない」。部落問題の渦中にあった中学校を避けて私学を目指した人たちがいた頃、母が私に言った言葉でした。人は、男女の差もなく、皆、平等・・・家より個人、財産より自由、それが大正デモクラシーというあの頃のリベラルな意識や考え方を持った父や母たちの時代だったのでしょうか。そして、その時代精神も、大正生まれが消えていくのと同じく、消えて行ってしまうのでしょうか。

そうそう、母が入院して我が家で食事をしていた100歳の父に私が訊ねたことがありました。「お父さんは何になりたかったの?」「サラリーマンになりたかった」。そうか、それで、父は、サラリーマンであることに誇りをもっていたんだと思いました。

父が市立病院で亡くなる前日か、前々日のこと。若い看護師さんから、お父さんは若いころ製薬会社に勤めておられたんですね。お父さんがお話してくださいましたと言われて母と夫と3人で驚いたことがありました。無口な父が30年前に辞めた会社の話をするなんてあり得ない事でした。 

会社のことと言えば、IBMの電子計算機を初めて導入するという「経営計算センター室長」になっていた父から、私が大学に入った年だったか、機械のマニュアルの翻訳を頼まれたことがありました。input とか outputという言葉は日本語にしなくていいからと言われ、四苦八苦して何とか日本語にして渡したマニュアルが役に立ったのか、父から翻訳料として本棚をもらいました。結婚して沼津から加賀市、神戸そして箕面と本棚も一緒に引っ越して今もこの本棚は使っています。

母が、父に介護が必要になった頃、在宅でお世話になっていた看護師さんに笑いながら話していたこんな言葉があります。「私たちは支え合って生きているんじゃなくて、もたれ合って生きているのよ」(おわり)

写真は1965年、父49歳、母44歳、私21歳、妹、18歳、16歳


◎母危篤で帰省、そのまま葬儀まで隣の実家で寝泊まりして食事を共にしていた妹と母の話になりました。母はリアリズムでノン・フィクションの人だった。映画やドラマや小説は『作りごと』でしょと言ってほとんど見ない、読まない人でした。テレビで喜んで見ていたのはニュース解説や討論番組。3人姉妹で母のフィクション嫌いに似ているのは亡くなった末の妹かも。

私たち二人はエンターテイメント好き、父が若い頃、映画をよく観ていたと聞いていましたし、写真や絵画も好きだったので父親似かも。私は小学校の高学年の頃から妹と二人で宝塚歌劇をよく観に行っていました。石橋で乗り換えて宝塚に着くと、花の道を通って、先に動物園と植物園を廻り、時間が来たら大劇場で歌劇を観ました。春日野八千代さんや寿美花代、明石照子さん、八千草薫さんや香川照之のお母さんの浜木綿子さんも現役でした。中学校へ行くようになるとピタリと行かなくなったのも、あの辺りでは普通で、タカラヅカは阪急沿線の女の子が麻疹(はしか)にかかるようなものと言われていました。エンタメ好きのルーツはここにありかも。